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西洋における反オナニーの歴史

ジャン・スタンジェ、アンヌ・ファン・ネック共著の「自慰」(以下、スタンジェ著「自慰」)によると、17世紀以前にはオナニーを罪とみなす宗教者の言説はあるが、オナニーそのものへの言及はさほど多くない。大した問題だとはみなされていなかったようだ。フーコーによれば西洋では「固まりミルク」と称して村の少年たちが精液の飛ばし合いっこをしていた。またスタンジェ著「自慰」によれば、16、17世紀の主流をなしていたガレノス医学では、オナニーはむしろ奨励されていた。ただし宗教者の中では、例え健康のためであっても自然に反する行為であって許されない、という意見が主流であったという。

同書によると、反オナニーが一般に流布するきっかけになったのは、1715年の「オナニア」(著者匿名)という本の出版であった。この本は1730年に第15版が、1778年には第22版が出るほどよく売れた。「オナニア」は、オナニーの有害性を強調するとともに、著者が独占販売権を握るオナニー治療に効果的な薬の購入を呼びかけていることから、金儲けが同書刊行の目的だったと、スタンジェ、ネックは結論している。「オナニア」では道徳面以上に医学面での有害性が強調されていた。1760年頃には、ティソがDe Morbisex Manustuprationeを、1764年には「オナニスム」を出版する。 これは、ヨーロッパ中に名声を博していた臨床医による、医学面からの有害性を訴えた本であり、ドイツの哲学者カント[3]に影響を与え、またルターもこれを賞賛した。

モッセ著「ナショナリズムとセクシュアリティ―市民道徳とナチズム」によると、(反オナニーを含む)セクシュアリティ統制にはナショナリズムの台頭が影響している。十八世紀以降の西ヨーロッパ諸国(独英仏伊)では、下層階級からも貴族階級からも自らを差別化しようとする、中産階級の価値観、リスペクタビリティ(市民的価値観)が生まれる。十八世紀以降のナショナリズムは、この中産階級の作法や道徳を吸収し、全階級に広めた。その鍵になるのはセクシュアリティの統制であり、「男らしさの理想」である。ここにおいて、マスターベーションに耽るオナニストは顔面蒼白、目が落ち窪み、心身虚弱な人間と表象され、男らしい闘争や社会的達成という国民的ステレオタイプとは相容れないとされた。

反オナニーの波は、ジャック・デュシェ著、金塚貞文訳「オナニズムの歴史」によれば、18世紀のティソの著書によって引き起こされ19世紀に最高潮に達する。スタンジェ著「自慰」によれば、道徳面と同程度かそれ以上に医学面での有害性が強調された。原因不明の多くの疾患が、オナニーにより引き起こされるとみなされた(くる病、関節リューマチ、肺炎、慢性カタル、視覚・聴覚の衰えなどなど、主張する者によりまちまちではあるが)。デュシェ著「オナニズムの歴史」によれば、1939年にはカルノー医師により性教育面での言及が行われ、1968年を境に、社会的見解に変化が起こったと述べられている。 また同書によれば、1882年に、フランスの精神病医専門誌における「二人の少女の神経障害を伴ったオナニズムの症例」(括弧内訳、「オナニズムの歴史」での訳まま)というデミトリオス・ザムバコ医師の記事に、医学アカデミー会員のゲラン医師の示唆により、女性器を焼き鏝で焼却すると脅したことや、ゲラン医師が何人もの女性に、その焼却治療を施し結果を得ていたことが記されていたという。


日本における反オナニーの歴史

13世紀に編纂された『宇治拾遺物語』11話には、源大納言雅俊が僧に対して「かはつるみはいかが候べき」(オナニーはどう=過ちなのか?)と青い顔をして訪ねたところ、一同に大爆笑された、という記述がある。「過ちかもしれない」と考える意識と、それを「笑える」おおらかさが同居していたことが伺える。

江戸期の儒医学者・貝原益軒の『養生訓』(1713年)では、オナニーと性交を区別する記述はないが、精液を減損しないことが養生の基本とされ、性行為そのものを否定はしないが、過度に陥ることは害とされる。赤川学著「セクシュアリティの歴史社会学」(以下、赤川著「歴史社会学」)によれば、このように精液減損の観点から健康維持を説き、性行為が過度に陥ることを戒める発想は、江戸期の性を扱った書物に一般的なものであった。中にはオナニーを性交と区別して否定するものもある。このような発想は武士階層のみならず、漢方医の必携書にも同様の記述が見られることから漢方医を通じ、町人、農民層を含めた広範な範囲に広まっていたと考えられる。これが日本において、明治期の開化セクソロジーに見られる反オナニー言説がすんなりと受容される土台となった。だが、近代以前はそれ以降に比べ、オナニーに関して比較的おおらかであったと言える。民俗学者・伊藤堅吉の山梨県南都留郡道志村調査によれば、道志村には明治末期まで若者宿が残されており、気の合った若衆たちは娯楽場として若者宿に集い、ペニスの大きさを競い合ったり精液の飛ばし合いをしていたという(石川弘義・野口武徳『性』)。

赤川著「歴史社会学」によれば、明治初期には、『造化機論』(アストン著、千葉繁訳)を嚆矢として、セクシュアリティに関わる言説が多く生産される(開化セクソロジー)。数々の西洋の書物の訳書、或いは、地方の士族、東京の平民、ジャーナリストらによって書かれた書物群には、生殖器や性行為に関して様々な観点から論じられているが、その多くがオナニーの害について述べている。ただし、その理論的根拠には二系統あり、一つは「精液減損の害」という『養生訓』に見られる観点から論じられるもので、必然的に「オナニーの害を被る主体は男。オナニーとセックスはどちらも過度であれば害。害は、身体・健康に関わるもの」となる。もう一方は「三種の電気説」を根拠にするもので「オナニーの害は性別問わず。セックスとオナニーの害は別もの。害は、精神にも及ぶ」という主張。

また、同書によれば、明治10年代の医学界の成立にともない、専門家集団の間でもオナニーの有害性は検討されはじめる。1877(明治10)年創刊の『東京医事新誌』では、1879(明治12)年からオナニーの害についての言及が始まる。なかには、性欲を抑制することの害を述べるものもあるなど、全体として単純なオナニー有害論とは距離を置いている。オナニーは神経病の原因か、結果かという問いが、ここで浮上する。1894(明治27)年、クラフト=エビング[4]の『色情狂編』が出版される。ここでは様々な「精神病」や「色情狂」の症状とオナニーの関係が検討される。オナニーは様々な「病」(精神病・神経衰弱・同性愛や露出狂を含む各種色情狂)の「原因」なのか「誘引」なのかが検討され、「誘引」であると結論される。クラフト=エビングは明治期にオナニーを論じた医学者たち(山本宗一、森鴎外富士川游)などに多大な影響を及ぼした。巣鴨病院に勤務していた山本宗一は、そこで出会った三人の「手淫偏執狂」の症例報告を行っている。このような例外はあるものの、明治後期の日本の医学者たちによる検討は、全般的に統計的・実証的な調査を行った上でなされたわけではなく、単に西洋の書物の受け売りでしかなく、オナニーは様々な「病」の「原因」か「誘引」かについては、医学者たちの見解は分かれていた。

同書によると、このような背景のもとに、専門家集団は徐々に性的な事柄に関する知識を蓄え、学術書を刊行するようになっていく。明治初期のセクシュアリティに関するテクストは、市井の人々かジャーナリストによって書かれていたが、明治30年代以降、その主な担い手は「医学士」「○○病院院長」などの肩書きを持つ人びと(専門家集団)へと移行する。ただし、医学界といっても、その専門分化によって論理の内実は変わる。医学専門家内部では、オナニーの有害性に相当の疑問がもたれていたにも関わらず、衛生学のテクストではオナニー有害を前提として、学校や家庭における青年の監視の必要性が主張されている。


貞操帯1903年にAlbert V. Toddが出願した米国特許の貞操帯

西洋における反オナニー思想はさまざまな器具の考案を生み出した。一例として、右図はオナニーの誘惑から青少年を守るために考案された貞操帯の特許である。青少年のペニスを図のサックに挿入し、ベルトを腰に巻き固定する。本人にはこの器具が外せないようになっている。もし、本人が誘惑にかられて、ペニスに手を伸ばしてオナニーを始めると、大きな警報がなり、周囲の注意を喚起せしめるようになっている。



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki