ja:宗教

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定義、および定義をめぐる諸問題

宗教の対象が普遍的・究極的なものである場合が多いためか、「宗教」という単語に対しても、厳密な定義があるかのように考えられる場合がある。しかしながら日本語の「宗教」という語自体の定義は明治以降に広まったものであり、また明治時代から現在までの百数十年の間にも変化しているものである。また、日本語以外の「宗教」に相当する単語は、各言語の歴史的・文化的経緯を経て意味が確立しているため、厳密にはそれぞれ別の意味を持つ語である。そのため、「宗教」という言葉がどのような意味で使われているのかは、文章中の定義や文脈で判断する必要がある。

宗教を広義にとらえると、その構成要素には社会常識や文化や生活習慣、慣習、思想や道徳など、非常に広範な人間の行動様式・活動が含まれる。ある宗教体系の中に生きている人間は通常、自己が置かれている宗教を意識しない。宗教は、他の宗教との接触があった場合や政治権力が宗教的権力と対立した場合、理科学的事実と経典内容に矛盾が存在した場合、あるいは聖と俗など非日常的なものと比較的日常に属するものの区別を行う場合に表面化し、意識されるようになる。このため、キリスト教に対する未開の宗教、政治権力に対する宗教教団、科学による世界観に対する宗教的世界観、日常生活に対する祭り、などの形を通して宗教は意識される。顕在化した宗教意識は場合によって視点が異なるため、「宗教」という言葉が指し示す内容も異なる原因になる。

宗教の定義に関する一般的な問題として、以下の問題がある。

大日本帝国においては、神道非宗教論(正しくは「神社」非宗教論)が展開された。これは、宗教とは個人の信仰であり、神道儀礼は宗教ではないとするものである。大日本帝国憲法下、政府は「神社は宗教に非ず」と強弁し、神社への参拝強制や天皇崇拝を正当化した。この問題は、現在においても、靖国神社参拝と信教の自由に関する問題などに影響を与えている。

江戸時代において、仏教(禅宗)からの儒教朱子学)の分離が進められた。明治時代において宗教概念が成立した際に、仏教から分離し道徳規範となる儒教は、宗教であるのかないのか、分類が難しいものとなった。また、現在においても、禅や儒教は宗教というよりは東洋思想ではないか、等の、定義に関する論争がある。

一般に宗教は組織をもつとされるが、そもそも教団と呼べるほどの制度が存在しないままに存在している、つまり組織が存在しない宗教的な活動も存在する。また、宗教にはしばしば特定の開祖が存在していることを考えれば、そうした宗教は初めから発達した組織と結びついているわけではないと言える。

近年では精神世界、ニューエイジ・ムーブメントと呼ばれるような動きや、自己啓発セミナーなどを通じて、制度化された特定の宗教とは結びつかない形での宗教的実践や信仰が生じている。宗教を個人的な真理などの探求と捉え各種の宗教から情報を得る。このようなニューエイジ・ムーブメントを、組織宗教からはなれた、より個人的な宗教性の探求と捉えることもできる。このような宗教は宗教団体として確認することができないため、「見えない宗教」と呼ぶ場合がある。

創唱宗教と対比されるところの自然宗教も、そもそもそれを信じている人が宗教や信仰についてあまりはっきりと自覚しておらず、宗教組織も非宗教組織から独立した形で明確に存在しているわけではない場合が多い。

一部の禅宗では、信じるべき「教え」がほとんど与えられず、単に全てを疑うことが奨励される。また、禅宗以外にも、宗教には、特殊な体験・神秘的な体験を通して感覚的に何かを体得することを重視したり、そのための手段として身体的な修行を実践する側面もある。こうした宗教的な体験を重視し、信者が個別に探求を行うことを奨励する宗教もある。この場合、宗教は何か従うべき教えがあり、それはしばしば聖典に書かれている、という考え方はあてはまらない。但し、特にこうした傾向が強い場合は神秘主義と呼ばれ、宗教と区別される場合もある。

マルクス主義ナチズムは、価値観や世界観を提供する。また、科学的といえない部分があり、視点によっては宗教と同等の機能を持つ。そのため、宗教と同列(宗教に準じるもの)に扱う論者もいる。

神の不在を信じる無神論不可知論も宗教的立場の一種、ある種の信念であるとみなす場合もあり、宗教と同列(宗教に準じるもの)に扱う者もいる。

近代化や都市化、科学の発達、あるいは人権思想の発達などにより、宗教が担ってきた様々な機能や要素が他のものに置き換えられていった。これは言い換えると、政治や科学、あるいは法律体系、人権思想などは、宗教と同種の部分含まれていると言い換えることもでき、同列に扱われる場合もある。

そもそも宗教(Religion)はラテン語起源の言葉であり、キング(1987年)のように宗教を定義しようとする試み自体が基本的には西洋的な態度である、とする考え方もある。

インドでは、人間や、人間が属する世界についての思弁・洞察を「ダルシャナ」と呼ぶ。インドの思想家たちはダルシャナの具体例として、仏教やジャイナ教といった宗教をあげるが、同時に、ニヤーヤ学派(論理学の研究で知られる)、ヴァイシェーシカ学派(一種の自然哲学)、文法学派(文法を研究する一方、言語=宇宙的原理であるというような主張をするのでヨーロッパ的な意味での「文法学」と異なる)など、一般に「哲学」(インド哲学)と呼ばれるものもダルシャナにあげる。インドでは宗教と哲学は一体をなしていて不可分であり、ダルシャナは宗教のみならず、哲学という側面をあわせ持つ。ダルシャナはヨーロッパ的な意味での「宗教」や「哲学」という概念を逸脱している。インドにおける「ダルシャナ」という概念の存在はヨーロッパ的な意味での「宗教」の定義の普遍性に疑問符を突きつけているとも言える。

政府として、宗教をどう定義しているかは国や時代によって異なり、それには政治的な意図が絡んでいる。例えば、戦前の日本政府が「神社は宗教ではない」としていたのは、国家が神社を保護するためである。また法輪功を宗教ではないとしていること(中国)や、オウム真理教は宗教ではない(宗教に値しない)という言説は、信仰の自由のもとで宗教弾圧を行なうためのものである。

また、日本の現行の民法では、宗教と祭祀を区別しているようにも解釈できる。このように人々や社会の営みのあり方が宗教と非宗教の区別を持たないケースがあること、また、そうした区別が仮に研究者によって見出されることがあるとしても、当事者は意識しているとは限らないこと、などは宗教の定義を困難にしている一因だと考えられる。

また、「宗教」とならび、宗教で重要な地位を占めることの多い「」の定義も困難である。古代の日本において「カミ」は、人知を超える霊的な力の総体を指すものであり、「かしこきもの」とされる。いわゆる「神様」だけではなく、精霊のようなものも含まれる観念であったと考えられる。一方、漢字の「神」は人の心(死んだ際に抜け出すもの)であり、日本語では「タマ」(霊魂、御霊)に近いものと考えられる。戦国時代にはキリスト教にある唯一神も「神」概念に含まれるようになった。神も、時代・地域(文化圏)の変化とともに定義が変わってきたものである。

カルトと宗教の問題も重要である。日本国外でもカルトは問題視され、欧州に置いては国レベルでカルトとそうでない団体を区別しようと試みている。どのような宗教であるかを問わず、どのような被害や問題がおきているか、人権侵害がおきているかによってカルトとそうでない団体を区別しようとしている。特にフランスでは「セクト」と読んで問題の多い団体に国単位で対応しておりMiviludesという組織を中心に大々的に対策を行っている。また欧州人権条約9条を遵守している国に置いては宗派を理由にした差別は違法である。


宗教の発生

宗教史を参照


宗教の表現形式

宗教は、様々な表現形式を通して、時間や空間を超えて伝えられている。神話や伝説、教典の内容や教義は、口伝や詠唱、詩、書物を通して伝えられる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki