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猿岩石(さるがんせき)は太田プロダクションに所属していた日本のお笑いコンビ及び歌手である(1994年 - 2004年)。
グループ名の由来は、中学校時代の有吉と森脇それぞれの片思いの女の子のあだ名、「猿女房」「ほくろ岩石」の「猿」と「岩石」をくっつけて出来た。「猿女房」は「猿に似た男の子とつきあっていた」から、「ほくろ岩石」は「岩石みたいなほくろが顔にあった」からついたあだ名とされる[要出典]。
目次
1 メンバー
2 歴史
2.1 『進め!電波少年』ヒッチハイク時代
2.2 帰国直後の人気絶頂時代
2.3 その後の猿岩石、そして解散へ
2.3.1 地元広島でのローカルタレント化
2.3.2 森脇ホストクラブ経営説
2.3.3 手裏剣トリオへの改名
2.3.4 解散へ
3 現在のメンバーの動向
4 賞など
5 過去の出演番組
6 CD
6.1 猿岩石名義
6.2 KEN-JIN BAND名義
7 出版物
8 関連項目
9 外部リンク
10 脚注・出典
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メンバー
森脇和成(もりわき かずなり)本名:同じ、1974年8月1日 - 、広島県出身。
有吉弘行(ありよし ひろいき)本名:同じ、1974年5月31日 - 、広島県出身。
1994年4月に結成された。1994年6月、2人で揃って広島県から東京都にバスで上京。上京後は、しばらく文京区後楽園周辺で野宿をしていた。
1996年4月、テレビ番組『進め!電波少年』の企画で「だまされて」香港に連れてこられた。そこで告げられたのは「イギリスまでヒッチハイクで行け」だった。そこから、旅が始まった。猿岩石は「最初は、『いつでもリタイヤできる、所詮はTV企画』という甘えがあった」と語っている。最初の頃は知名度の無さから低迷していたが、インドを過ぎた頃から人気が出始めた。この企画で『電波少年』の人気は持ち直し、2003年まで続く事になった。2人は1996年10月に無事ロンドンにゴールした。また、応援歌「旅人よ ?The Longest Journey」も発売され、これが評判になった。さらに、ヒッチハイクの内実を記した書籍『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになった。
しかし、当時のギャラ、印税とも給料制で、特に本の印税は一銭も来なかった[1]。
帰国後、人気者になっていた猿岩石はテレビその他に引っ張りだこになった。しかし、11月にバンコク(タイ)?ヤンゴン(ミャンマー)間、ヤンゴン?コルカタ(インド)間、テヘラン(イラン)?アンカラ(トルコ)間の3ヶ所で飛行機に乗っていた事が発覚。問題になるが、「危険地帯であった」という釈明があり、騒動は収束する。
12月、秋元康のプロデュースにより、藤井フミヤ、藤井尚之兄弟提供の「白い雲のように」を発売する。ヒッチハイクを連想させる様な曲でミリオンセラーになり、1997年の日本レコード大賞の新人賞を受賞し、その後もヒット曲を連発。しかし、紅白歌合戦には出場できなかった。
また、当時放送されており、事務所の先輩である松村邦洋がパーソナリティを担当していたラジオ番組、『松村邦洋のオールナイトニッポン』にもしばしば出演していた。
この頃、営業で学園祭を一緒に回ったバナナマンは、学園祭が終わり車で帰る際に猿岩石のファンが車の周囲に押し寄せて混乱することが予想されたため、ダミー車を出すことになったが、そのダミー車に乗ったのが当時知名度が低かった自分たちであったと語っている。後輩の影武者をやらされるという大変屈辱的な出来事だったと告白している。