奥田 碩(おくだ ひろし、1932年12月29日 - )は、日本の実業家。内閣特別顧問、社団法人日本経済団体連合会名誉会長、元トヨタ自動車社長。1996年藍綬褒章受章。
社団法人日本経済団体連合会会長(初代)、社団法人日本経営者団体連盟会長(第9代)、トヨタ自動車株式会社代表取締役社長(第8代)、同社代表取締役会長を歴任。
実弟の奥田務は、大丸会長兼CEO、J.フロント リテイリング社長兼CEO。
目次
1 来歴・人物
1.1 社長就任まで
1.2 社長時代
1.3 財界トップへ
2 経済関係の略歴
3 発言など
4 大手マスコミの沈黙
5 語録
6 脚註
7 関連項目
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三重県津市出身。三重県立松阪北高等学校(現・三重県立松阪工業高等学校)を経て、1955年に一橋大学商学部を卒業しトヨタ自動車販売株式会社(現・トヨタ自動車株式会社)入社。大学時代は柔道部に所属し、六段の腕前を誇る。
トヨタ自販の経理部時代に上司とぶつかり、1972年秋、マニラに赴任する。ここで奥田は、フィリピンの政商で、現地でトヨタ車の組み立て・販売を独占するデルタ・モーターの社長・リカルド・C・シルベリオからトヨタへの延滞金を取り立てる任務に就く。肩書きは「経理アドバイザー」。これは困難な任務であり、事実上の左遷であったが、奥田は当時のマルコス大統領らとのコネクションを生かし、未納金の回収に成功した。
当時、マニラには豊田章一郎の娘婿・藤本進が大蔵省の駐在員として出向しており、奥田は章一郎が孫の顔を見に来るたびに同行し、このころから章一郎と奥田の関係が始まった。章一郎は奥田の才能を認め、「マニラでこんなやつがくすぶっているのか。本社の人事は何をしているんだ」とまで言ったという。
1979年に豪亜部長に昇格し帰国。1982年に取締役就任。85年にはアメリカ進出のための用地選定を任され、当時会長だった豊田英二から北米事業準備室副室長に指名される。全米からの応募の中から各知事との交渉に当たり、最終的にケンタッキー州工場の誘致に到る。1987年に常務取締役、1988年に専務取締役、1992年に取締役副社長となり、1995年に代表取締役社長に昇格した。
社長時代にはそれまでどちらかといえば良い意味で保守的だったトヨタを改革したと言われている。例えば、世界に先駆けてハイブリッド車「プリウス」を発売したことや、それまでトヨタが敬遠していたF1への参戦を表明したことなどである。奥田時代、当時国内販売で落ち込んでいたシェアを3年がかりで40%代まで回復させるなど、奥田の時代からトヨタは「攻め」の姿勢に転じて躍進を遂げ、現在の世界第1位の自動車メーカーの座を手にした。このことから、彼の経営手腕は一般的に高く評価されており、ハウツー本が出販されたり他のメーカーの中には彼の改革を手本にする企業まで出てきた。
奥田の諸改革には常に後ろ盾として豊田章一郎の姿があり、奥田も豊田本家の章一郎を求心力として旗印にし、常に豊田家を立てつつ改革を進めた。
その一方で、スポーツタイプの車種を全廃した戦略、モータースポーツを広告として捉えるやり方への批判、従業員に過度のサービス残業を強いて労働基準監督署の査察を度々受ける事態を招いたり、業績好調にもかかわらず外国人労働者や非正規雇用の確保で賃金の抑制を行うなど彼の経営姿勢を批判する声が圧倒的に多いのも事実である。
1999年6月、次期社長に副社長だった張富士夫を指名して代表取締役会長就任。2001年株式会社東京証券取引所取締役就任、2002年株式会社UFJホールディングス取締役就任、2005年日本郵政株式会社取締役就任。2006年トヨタ自動車会長及び日本経団連会長退任とともに経営の第一線から退く意向を示すも社内の意向により同社取締役相談役として取締役に留任。株式会社楽天野球団経営諮問委員会委員、KDDI株式会社監査役・取締役、株式会社豊田自動織機監査役、東和不動産株式会社取締役、中京ゴルフ倶楽部株式会社理事、株式会社豊田中央研究所取締役(2006年まで)、株式会社デンソー取締役(2003年まで)、株式会社グレイスヒルズカントリー倶楽部理事等も務める。
7年にわたって財界トップの座にあったほか、歴代内閣で経済財政諮問会議や各種審議会、有識者会議の委員を数多く勤め、多数の企業の役員に名を連ねるなど政財界に大きな影響力を誇った。第一線を退いてからも内閣特別顧問に任ぜられており、現在でも財界最大の実力者である。
2007年、如水会有志による「石原慎太郎東京都知事、激励と懇親の会」に電報を送った。