ブルガリアの歴史
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トラキア
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第一次ブルガリア帝国
第二次ブルガリア帝国
初期オスマン時代
民族覚醒
ブルガリア公国
ブルガリア王国
ブルガリア人民共和国
ブルガリア共和国
ブルガリアの歴史を以下に記述する。
目次
1 古代
2 中世のブルガリア
2.1 第一次ブルガリア帝国
2.2 東ローマ帝国の統治
2.3 第二次ブルガリア帝国
3 近代のブルガリア
4 第二次世界大戦から冷戦、民主化
5 外部リンク
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いまのブルガリアにあたる地域には古代にはトラキア人が居住していた。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王に征服され、ギリシア化した。さらに、紀元前1世紀にはローマの属州となった。
詳細は第一次ブルガリア帝国を参照正教に改宗したボリス1世
ローマの衰退にともないゲルマン民族のゴート人がこの地域に侵入。続いて遊牧民族のアヴァール人が侵入してきた。そして6世紀までにはスラヴ人(南スラヴ人)が居住。これをテュルク系のブルガール人が征服にて681年にブルガリア帝国を建国した。ブルガール人は先住民族のスラヴ人と同化してブルガリア人を形成し、南方の東ローマ帝国からビザンティン文化を受容し、9世紀の終わりにはボリス1世のもとでギリシア正教に改宗した。これによって異教の弾圧が進んだため、保守的なブルガール人の貴族の反乱が起こったが、これらは鎮圧された。しかし、これによってブルガリアにおけるギリシア正教の信仰が定まったわけではなく、ボリスの引退後に王位を継承した長男のヴラディミルは、東フランク王国に接近しつつ異教信仰の復活を図った。このため、父ボリスによって廃位され、3男シメオンが王位につくことになった。このシメオン1世(位893年-927年)のもとで最盛期を迎え、マジャール人を西方に追いやりつつ、一時は東ローマ帝国を軍事的に圧倒し、コンスタンティノープルへの入城も果たした。次王ペタル1世(位927年-970年)は、東ローマ皇帝と婚姻を通じて姻戚関係を結び、正式に「ブルガリア人の皇帝」の称号を得た。しかし、親東ローマ政策をめぐり国内での政治的分裂が進むなかで、再び東ローマ帝国が攻勢を強めていった。10世紀後半には東ローマ帝国の攻撃でプレスラフが占領され、ブルガリア皇帝ボリス2世らが捕虜とされた。この際に国土の東部が失われ、1018年には、東ローマ皇帝バシレイオス2世によって残りの国土も征服された。
東ローマ帝国の統治下に入ると、テマ制(セマ制)がブルガリアにも適用された。このころより農村にまで貨幣経済が浸透し、東ローマ帝国による徴税が強化されたことで、反東ローマ反乱があいついで起こった。こうした中で、東ローマ帝国側が11世紀後半以降、セルジューク朝や十字軍の攻撃によって弱体化し、プロノイア制の普及など分権化が進んだ。こうして、ブルガリア地域を統制することが困難になっていった。
詳細は第二次ブルガリア帝国を参照
トドル(のちのペタル2世)とアセン(のちのアセン1世)という二人の兄弟が、1187年に東ローマ帝国から独立を果たした。都をタルノヴォ(現ヴェリコ・タルノヴォ)に定め、ブルガリア人のほか周辺民族も統治下においた。13世紀初頭には、東ローマ帝国が第四回十字軍によってコンスタンティノープルを占領されるなど分裂状態にあったため、再びバルカン半島に版図を拡大した。イヴァン・アセン2世(位1218-41)のもとで最盛期を迎え、周辺諸国とは婚姻政策を通じて良好な関係を維持し、ブルガリア独自の通貨を発行するなど経済振興も図った。しかし、徐々に東ローマ勢力が復活してきたうえ、帝国内でも反乱が多発し地方の封建貴族が自立を進め、分裂状態へと陥っていった。ついにはセルビア王国との抗争で国力を疲弊させ、オスマン帝国によって併合された。
19世紀に民族主義の気運が高まり、1853年のクリミア戦争ではロシア軍の諜報員や軍事顧問が数多く派遣されて情報組織がつくられた。