Wikipedia:中立的な観点
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フェアであることと、好意的な立場

もしも論争についてフェアに説明するのであれば、競合しあっている様々な立場を、常に肯定的で好意的な形で提示すべきです。多くの記事は、対立する見方について紹介しつつも、特定の見方を支持するものになってしまっています。これは失敗です。ある記事が、意見ではなく事実を記述するものになっていたとしても、その記事は依然としてどのような立場に立って書かれているかを読者にそれとなく感じさせるものになっている場合があります。それはどのような事実をとりあげて説明するか、(どのような事実をとりあげないか)、それらをどのように配列し、まとめるか、といったことを通じて行われます。例えば、ある立場に対立する意見を紹介しながらそれを否定する説明を行うと、そうした対立意見を「対立意見」のセクションにまとめて紹介する場合と比べて、ずっと説得力がなくなります。

こうしたことをするかわりに、記事を書く時には、説明されている全ての立場は、少なくとも賛成できそうに思えるものだというトーンで書くべきです。全ての競合する立場を好意的に説明しましょう。例えば、○○の考え方はよいアイディアだ、但し、一部の反対意見によれば、そうしたアイディアは××を見落としていると言われている、という書き方ができます。もしこういう書き方ができなければ、記事の内容にはいろいろ問題が残り、後に他の人の編集の際にそれを中和するような変更がなされることになるでしょう。


芸術作品などの特徴に関する意見

特別なケースがひとつ考えられます。審美的な判断にかかわるものです。ウィキペディアの記事の一部はアート、アーティスト、その他クリエイティブな話題(例えばミュージシャン、役者、本、テレビゲーム、など)を扱うもので、執筆者が感じたことを表現する傾向にあります。これは、百科事典にそぐわない記述だと言えるでしょう。だれそれが歴史上最も偉大なベーシストである、といったことについてはわれわれは意見の一致を見ることができないでしょう。ですが、あるアーティストや作品が一般大衆や、批評家や、有名な専門家などにどのように受け止められたか、という情報は実際のところとても重要なものです。ある作品についての一般的な解釈の概説をすること、それもできればその解釈を提唱している特定の著名な人への言及なりその人の引用をつけて、はよいことです。例えば、シェイクスピアが英語による著述家の中で最も偉大な人の一人だということは、どこかの生徒が百科事典から学ぶべき重要な知識でしょう。ただし、注意して下さい――作家や作品が大衆や批評家にどのように受け止められたかを判断するためには、下調べが必要でしょう。ですが、そのような情報は百科事典にとっては非常に重要で、ウィキペディアの執筆者の独自の見解は重要ではありません。


ひとつの帰結:敵のために書く

例えば政治的に論争の的になっているような事柄について常に自分の観点を主張しようとして、他の観点がフェアに提示されているかどうかについては気にしない人は、この中立性のポリシーに違反しています。中立性の方針は、執筆者が自分の立場だけでなく、自分と反対の立場についてもきちんと説明するように求めています。このポリシーを守るように努力しなければ、ウィキペディアはいまよりもずっと頼りない情報源になってしまうでしょう。われわれは皆、各人の観点をできるだけ好意的に説明するように努力すべきです。

これは、一部の人にとっては既に明らかな事を明文化しただけのものです。もしもわれわれ各人が完全に偏った文章を投稿してもよいとしたら、そもそも中立性のポリシーに誰かが違反するなどという可能性がどこにあるでしょうか? このポリシーの命じるところは、「中立的な観点から書け」というものです。もしも、このポリシーが「同意できない立場についても、フェアに説明を行うように各人が努力べきだ」ということを意味しないとしたら、何を意味するでしょうか? あるいは、こう考える人もいるかも知れません「自分の立場をフェアに提示すべきだ、そして他の人がそれを編集するのを受け入れるべきだ」これは解釈としては少しは意味が通るかもしれません、でも少しだけです。もしも「ページを保存」するボタンを押す時、そのユーザーが記事の全文に責任を負っているのだとしたら、そのユーザーが自分の賛同する立場だけを説明したり、対立する立場をフェアに説明しなかったり、不完全な形で説明したりしているような場合には、その人はウィキペディアに偏った見方を付け加えていることになります。このように記事の全文に責任を負うと考えることは意味が通るでしょうか? それとも、文章の一部だけに限定して、「この部分は自分の文責だ」と考えることの方が意味が通るでしょうか? あるいはそう言うこともあるかも知れません。ですが、中立性の追及を強く、明白に掲げるこのウィキペディアのプロジェクトには、そういう態度はふさわしくないように見えます。

あるユーザーが自分と反対の立場についてのフェアな説明を試みたところで、当の反対の立場に立つ人は、その説明が不十分なものだと考えるかも知れません。ですが、重要なのは説明が成功するか失敗するかではなく、フェアな説明を試みるべきだという考え方です。中立性をめぐる論争がある時に、全ての立場がフェアに説明されていなければならないし、誠意を持って自分の立場以外の立場をフェアに説明しようと試みなければならないという考え方をわれわれが共有していれば、その論争の解決はずっとうまく行きます。そしてそのような態度は、何も試みないことよりもずっと相手方の理解や謝意を得ることになります。

「敵のために書く」と言えば、あたかもわれわれが欠陥のある議論をわざわざウィキペディアに追加するという奇妙なことをしているかのように思われるかも知れません。ですが、ともすれば不可解なこの行動について、(出版されている中で)最良の反論を、できるだけ賛同するような立場から追加しているのだ、できればその反論を、記事中で紹介しているのと同じ形で提唱している著名な人物を引用しようともしているのだ、と考えるのがいいと思います。学者、例えば哲学者は常にこういうことをします。


ひとつの例

偏った見方から書かれた文章の例と、ウィキペディアの参加者がそれをどんな風に比較的偏りのない記事にして行ったかを考えてみることは、この問題についての理解の助けになるかも知れません。

2001年初頭に、妊娠中絶の記事は、自分の意見を声高に唱えようという何人かの参加者によって、レトリックの応酬のようなものに使われました。どのような議論が紹介され、それら対立する立場がどのように提示されるべきかについての合意に達することもできない状態でした。その記事に必要だったのは、――そして実際にもたらされたのは――様々な時代における妊娠中絶の道徳的、法的な正当性についての様々な立場を扱う踏み込んだ議論でした。そのような諸立場の議論は慎重にデザインされ、どのような特定の立場もひいきされないように工夫されました。これにより、妊娠中絶をとりまく様々な立場が、好意的な視点から強みと弱みと共に紹介されることになり、それらの諸立場を整理し、理解することを容易にしました。

他にも、事実上特定の立場の推進のために書かれる形で始まり、その後、全ての立場を明確に、好意的に提示するように心がけている人々によってきれいに仕上げられることになった記事のサクセスストーリーはたくさんあります。


批判と回答

以下に挙げるのはウィキペディアの中立性の方針についてのよくある反論、質問と、それに対する回答です。


客観的な視点など存在しない

客観性などというものは存在しない。少しでも哲学的に洗練された人なら誰でも知っていることだ。それなのにどうして「中立性」のポリシーを真剣に受け止めることができるのか? 中立性、つまり偏りのない見方、というのは端的に不可能だ。

これはおそらく中立性の方針に対する最もよくある批判です。これはこのポリシーについての最もよくある誤解をも反映しています。(ちなみにこのポリシーは、もともとはある哲学者によってヌーペディアのために作成されたものです。)誤解があるのは、このポリシーが客観性の可能性について何か議論の余地があるような主張をしているという点です。客観性についての主張はこのポリシーには含まれていません。特に、このポリシーは客観性なるものがある、(トーマス・ネーゲルの言葉を借りれば「どこでもない場所に立った観点」)そしてその観点から書かれた記事は客観的に真である、 という主張すらもしていません。このポリシーはそういうものではないし、われわれの目的もそういうものではないのです! むしろ、われわれは「中立」「偏りのない」といった概念についてある独特の理解をします。これはわれわれの多くが慣れ親しんでいる解釈とは異なっているものです。このポリシーの主張するところは、単に、論争に参加するのではなく、論争を描写するべくベストを尽くすべきだ、というものです。これは、哲学的に反論可能であるようなことは何も書くな、という意味ではありません。これは、哲学者であれば非常に相対主義的な立場の者でも、いつもやっていることです。(哲学者がある議論を立てる時には、対立する意見を過小評価して、それを反駁するだけに終始している、という批判を逃れるために、事実上まず対立する意見をフェアに紹介できることが必要です。)洗練された相対主義者は、このポリシーが彼らの相対主義と完全に一致するものであると即座に見て取るでしょう。

この路線のポリシーにとって何か問題含みな点があるとしたら、それは論争をフェアに描写することができる、だから全ての主要な参加者が結果として生み出された文章を見て全ての観点が好意的に、できるだけ完全な形で紹介されている(少なくとも議論の文脈に関係がある範囲内で完全である)と合意できるだろう、という含意でしょう。これは実証的な問題であり、このような文章を書くことがそもそも可能なのか、という哲学的な問題ではありません。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen