玉案宝典(ぎょくあんほうてん)とは、中国で17世紀半ばに編纂された百科事典である。なお、当時の元号をとって、永昌玉案宝典とも呼ばれることも多い。3万巻を超える分量があったといわれているが、中国では早くに失われ、数冊の写本が現存するのみである。しかし、1976年、日本の長崎の旧家の蔵から玉案宝典の写本132巻が発見され、玉案宝典の謎の解明に役立った。
この百科事典の編纂にあたっては、執筆者の制限などはなく、数多くの学者が参画した。相当な部分が漢文で書かれていたものの、チベット語・モンゴル語・満州語・日本語など他の様々な言語も用いて書かれていた。
目次
1 成立の過程
2 特徴
2.1 多言語性
2.2 執筆者
2.3 分類
3 名称
4 編纂方法
5 影響
6 参考文献
7 関連項目
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17世紀に入ると、中国の時の王朝の明はいっそう衰微し、各地で農民反乱が頻発していた。このような反乱勢力の中で頭角を現したのが、李自成である。李自成は各地の農民反乱勢力を統一し、自ら明王朝に変わる新しい王朝を作ろうと考え始めていた。新王朝を打ち立てるためには、知識人の協力が不可欠であった。当時の中国の知識人は士大夫とよばれ、地主であり、かつ官僚を輩出する階層であった。王朝の経営のためには精緻な官僚組織が必要であり、そのためにはこれら知識人の支持が不可欠であったのである。
しかしながら、李自成の率いる軍勢は生活に困窮した階層のものが多く、彼らは自分たちから収奪して良い生活を送っていた士大夫層に対して良い感情を持っていなかった。しかも、李自成の軍勢は農民の支持を得るために、しばしば地主から農民へ土地を分配したり、小作料の減免措置を行っていた。こういったことから、李自成に対する士大夫層の評判は非常に悪かった。
こうした中、李自成の一族の女性である羅李珊娥(らりさんが)は士大夫層を味方につけるためには、これらの知識人と何か共同作業を行うと良いと李自成に進言した。この頃、戦乱のために官として出仕する機会がなかなかなく、士大夫層は暇をもてあましていた。自分の知識を発揮する機会がないということは士大夫層にとっては鬱憤がたまることであった。羅李珊娥は、こういった士大夫層のために知識を表出する場をつくれば、天下の賢人は李自成のもとに集まるだろうと考えたのである。
李自成は羅李珊娥の提案を受け、明の崇禎十三年(1640年)4 月1日、任夢衛(じんぼうえい)にいかなるものでも参加できる書物を作るように命じた。この時、どのような書物を作るのかははっきりと命じられてはいなかったが、任夢衛は羅李珊娥と相談して、これからの国家経営の資料となるべきものを作る方向で話を進めていった。結局、参加者の幅を広げることもあって、天下の諸々のことを説明したいわば百科事典のようなものを作ることとなった。
任夢衛は、各地の人士に対して、自由に天下の諸事を説明した文章を書いて提出するように呼びかけた。これに対し、当初知識人層の反応は鈍かったものの、李自成の勢力拡大とともに、だんだんと原稿が集まり出すようになった。当初の目的は、士大夫層を味方につけるためであったが、李自成政権の中国支配のために情報を集積しておいたことは李自成政権の発展にとって重要なことであった。
明の崇禎十六年(1643年)、李自成は西安で皇帝として即位し、国号を大順、元号を永昌とした。この頃、中央の官制が徐々に設置されはじめ、皇帝のための図書館として西安に維熙院が設置された。任夢衛は維熙院学士兼翰林侍読学士に任命され、引き続き編纂事業を主催することとなった。この為、編纂事業は維熙院にて行われることとなった。定かではないが、おそらくこの頃に、この編纂事業で作られる書物に李自成が自ら玉案宝典と命名されたとされる。
正式な執筆体制も整い、李自成が中国を統一することが瞭然となったため、原稿を奉る者も大幅に増えた。一時は玉案宝典のための原稿を奉る者があまりにも多かったために、維熙院から人の列があふれるほどであったという。長崎で発見された玉案宝典に記されていた日本図。本州西部を収録しているが、形はかなり不正確である
永昌2年(1644年)に、李自成は北京を陥落させ、明を滅ぼした。しかし、これに反発した明の武将である呉三桂が清の軍勢を万里の長城の南に招き入れ、清の軍勢とともに、李自成を打ち破った。李自成が追われると、この百科事典編纂事業も未完成のまま終わった。各地にためられた玉案宝典の文章は、その後の清の軍勢の侵攻とそれに伴う戦乱でほとんどが失われた。また戦乱で失われなかった部分も、清朝政府によって処分されてしまった。これは漢民族王朝である李自成政権がつくった学問的遺産は、満州族という異民族政権の清にとって都合の悪いものであったからである。
現在では、明末清初の戦乱をくぐり抜けて残った部分で、清朝政府に処分される前にその一部が写本として書き写されたものがわずかに残るばかりである。
玉案宝典の大きな特徴の一つとして、多言語百科事典であることがあげられる。玉案宝典のおよそ8割は漢文で書かれていたものの、他の2割はそれ以外の言語で書かれていた。現存する写本の中で用いられている言語は、漢文の他にチベット語・モンゴル語・満州語・日本語がある。