一般利用のための百科事典は、中立的な観点から編纂、収集された知識を集めたものです。百科事典の記事を書く際には、中立的な観点以外のどのような特定の立場をとることも、可能な限り明確に避けるべきです。
中立的な観点からは、意見や事実について、それを支持する者と批判する者とが共に合意できるように記述することを目指します。もちろん、両者の完全な合意は不可能です。この世界には、自分の見方を押し付けるための記述以外のどのような記述に対しても譲歩することのない人々もいます。我々にできることは、個別の点については見解が分かれていても、本質的に合理的な点で共通している人々の間での合意を目指すことだけです。
私の言いたいことをもっとはっきりさせるために、いくつか例を挙げてみます。
百科事典の記事では、執筆者にそういう確信があったとしても、営利企業は犯罪集団である、というような議論を展開するべきではありません。そのかわり、一部の人々はそのように信じている、という事実を報告し、その理由が何故かを説明し、それに反対する側の意見がどのようなものであるかを紹介するべきです。
百科事典の記事は、自由放任型の資本主義が最良の社会システムである、といった議論を展開するべきではありません。(ちなみにこれは私の信念なのですが。)そのかわり、記事ではそのような見方を持つ人々の議論を、それに賛同しない人々の議論と併せて紹介するべきです。
おそらく、ある記述を百科事典向きにあつらえる簡単な方法は、ある物事が実際にどうであるかを書くよりも、その物事について人々がどのような見解を持っているかについて書くことでしょう。
もし上の声明を読んで私の考えが主観主義か集団主義か帝国主義だと思うとしたら、たぶんそれは誤解だと思います。私に尋ねてみて下さい。人々が何を信じているかは、客観的な事実の問題であり、中立的な観点からたやすく記述することができるものです。――ジンボ・ウェールズ (Jimbo Wales)
訳注:Jimbo Wales はウィキペディアの創設メンバーの一人で、ウィキペディアを運営しているウィキメディア財団の終身理事長である。
ウィキペディアには大切な方針があります:大まかにいえば、全ての観点からの意見を公正に考慮して、偏った観点を排した記事を書くべきだ、というものです。これは、記事は偏りのない「客観的な」観点に基づいてのみ書くことができる、と誤解されることもありますが、そうではありません。
ウィキペディアの中立性についての方針は、論争での全ての観点を公正に考慮することで、記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない、というものなのです。
記事を中立的なものにするためには、我々の共同作業が不可欠です。それはウィキペディア成功の秘訣のひとつでもあります。
中立的な観点からの記事の執筆は鍛錬を必要とし、ひとつのアートともいえるものです。
以下のエッセイでは、このポリシーについて踏み込んで説明しますが、このエッセイ自体、多くの議論の賜物です。我々はあなたもこのエッセイを読み、それについてコメントし、大筋において理解するように強くお勧めします。
以下の文章の内容:
はじめに:中立性という基本的な概念と、何故ウィキペディアが中立的であるべきかについて。中立的な見方とは何なのか? 「偏りのない」、「中立的な」と言う時、我々は何が言いたいのか?
中立性のポリシーの言い換え:事実を記述し、様々な意見についての事実も記述せよ、だが、意見の表明は避けよ。
公正さと共感を示すこと
芸術作品など、様々な作品の特徴についての意見表明
帰結:敵のための記述
例
反論と弁明
はじめに:中立性の基本的な概念と、なぜウィキペディアが中立的であるべきかについて
ウィキペディア成功のカギともいえる方針は、記事が「偏っていない」あるいは「中立的な観点」から書かれているべきだ、というものです。これらの用語は一般とはやや異なった意味で使われています。私たちがどのように中立性を捉えているのかを知ることは、とても重要なことです。このページを丁寧に読めば理解する助けとなるでしょう。
基本的には、偏りのない(中立的な観点から)記事を執筆するということは、特定の観点からの意見を主張するかわりに、論争における様々な立場を公正に説明することです。これはやや単純な定義で、もっと細かな点に配慮した定義は後に書きます。今の時点では、偏りのない記事を書くことは論争に参加することではなく論争を説明することだ、と言っておくことにします。
どうしてウィキペディアは中立的でなければならないのでしょうか?
ウィキペディアは一般用の百科事典です。これは、様々なレベルでの一般的な知識を集めたものと言えます。しかし、私たち(人類)は全ての物事について同じ見方をしているわけではありません。複数の異なる論理に基づいた意見同士が競合するときや、他の視点から見ると矛盾が生ずる意見があるとき、一つの意見を固守する人は他の意見を間違いと信じ込み、知識と思わなくなってしまいます。なにが真実であるか意見が食い違う時は、何が知識であるかについての見解が異なっていると言えます。ウィキペディアは共同作業だからこそうまくいく試みです。ですが、このような見解の相違から、ある人が p であると書き、次に編集する人が p ではないと書き直すような、終わりのない「編集戦争」をどうしたら避けられるでしょうか?
ウィキペディアの作業をする上で私たちが受け入れている解決策は、「人類の知識」は(意義のある、出版されている)全ての異なる観点を含む、というものです。私たちはそのような意味での人類の知識を提供することに最大限の注意を払っています。これは「知識」という語の意味としては、一般に広く受け入れられているものとそう変わらないでしょう。この意味で「知られていること」は時間と共に変化しますし、このように「知っている」という言葉を使うときには、引用符を使って表現することがあります。中世では、私たちは魔神が病をおこしたことを「知っていた」。今日では、そうではないことを「知っている」。(訳注:直接誰かの発言や文章を引用するわけではなく、それらの記述が自分の考えではないことを強調するべく、引用符を使うわけです。 ⇒scare quotes参照)
私たちはこういう意味での人類の知識を、偏った形で編纂することもできるでしょう。あるトピック T について、様々な理論を説明し、その後で T についての真実はこれこれである、と主張します。ですが、ご存知のように、ウィキペディアは国際的な共同作業のプロジェクトです。おそらく、プロジェクトが成長するに従って、ほとんど全ての事柄についての全ての観点が(いずれは)編集・執筆にする人や記事を読む人の中の誰かに支持されることになるでしょう。終わりのない編集戦争を避けるためには、様々な観点を公正に扱い、どれかひとつを正しい観点として主張するようなことのないようにすべきです。そしてそれが、このページで言う記事を「偏りのない」「中立的な」ものにする方法です。中立的な観点から記事を書くことは、論争の種になっているトピックについて主張を含めずに書くことです。そのためには、競合する観点についてそれぞれの支持者にとって多かれ少なかれ納得がいくような形で記述すれば事足りることがほとんどです。
このポリシーの基本的な根拠を今一度まとめると:ウィキペディアは百科事典であり、人類の知識を編纂するものです。しかしウィキペディアは国際的な利用のために共同編集されるものです。編集に携わる人々全ての間で全ての事柄について(あるいは多くの事柄について、であっても)、人類が手にしている知識にどのようなものがあるかについて特定の観点を共有することは望めません。そこで、人類の知識についてやや緩やかな見方をして、互いに競合する様々な理論がどれも人類の知識の一部である、と考えることにします。私たちは、ひとりひとりが、そして全体としても、競合する諸理論が公正に提示されるように、特定の立場が主張されないように、努力するべきです。
中立性の方針を掲げることにはもうひとつの理由があります。それは、私たちが特定の観点を読者に押し付けないことが明らかなら、読者に各自自由に考えていいのだと感じさせ、ひいては知的な独立性を支持することになります。もしもわれわれが中立性のポリシーを維持することに成功したら、世界中の全体主義的な政府や独断的な組織はウィキペディアに反対することになるでしょう:広範な問題について、競合する様々な理論を提示することは、ウィキペディアのクリエイターが、読者が各自で意見を形成する能力を信頼する、ということを示します。複数の観点について、それらの利点を公正に示し、どれか特定の観点を採用するように要求したりしない記事は、読者を解放する効果があります。中立性は独断主義を倒すのです。これはウィキペディアで作業しているほとんど全ての人がよいことだと認めていることです。