VOW_WOW
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BOWWOW(バウワウ)は、日本のハードロックバンド。又、英語表記での犬の鳴き声。以下解説はバンドに関する事項とする。

1976年にBOW WOW(バウワウ)の名前でデビュー。山本恭司の脅威の速弾きがギターキッズの間で評判を呼んだ。1984年にバンド名をVOW WOWに代え、1990年に解散した。1998年からBOW WOWとして再結成、現在はBOWWOWと名乗って活動している。(現在は若手黒人ラッパーがBOW WOWを名乗り、世界的知名度を持っている。)

1981年にデビューしたイギリスのニュー・ウェイヴ・バンドBOW WOW WOW(1984年解散)がトップスターになり、世界で活躍。そのため先にデビューしているにもかかわらず、英米で活動するには改名を余儀なくされた。日本のファンはBOW WOWを『B』(ビー)と呼び、VOW WOWを『V』(ヴイ)と呼んでいる。
目次

1 来歴

1.1 第1期BOW WOW

1.2 VOW WOW時代

1.3 第2期BOW WOW

1.4 再結成オリジナルBOW WOW


2 ディスコグラフィ

2.1 BOW WOW

2.2 VOW WOW

2.3 VOW WOW時代のビデオ


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来歴


第1期BOW WOW

BOW WOW(バウワウ)は1975年に芸能プロダクションアルト企画のプロデューサー上野義美が自身の売れるロックバンド構想に合うメンバーを集めて作ったロックバンドである。最初に斎藤光浩や新美俊宏がルックスや声質で選ばれた。上野の構想は斎藤をリードヴォーカルに据えたBCR系のアイドルロックバンドだったが、リードギタリストに実力者を1人だけ入れてバンドの支柱とするアイデアもあった。その役割を担うべく選ばれたのが島根出身で当時プロギタリストを目指して東京の音楽専門学校に通っていた山本恭司である。山本という逸材の参加で上野が期待した以上に本格派志向が強まったが、アイドルバンド構想が根底から覆るほどではなく、未定だったベーシストもルックスが最重視され、山本の知人の中から色白細身長身の佐野賢二が選ばれた。

バンドの育成を任された山本は、他メンバーの実力不足を逆手に取るかのように、長期合宿による猛練習を敢行しメンバーの演奏力向上とバンドの基礎固めがなされた。そこで培われた演奏上の各パートのコンビネーションのよさはこのバンドの最大の財産である。特に山本と斎藤のツインギターの絶妙のタイム感は長い空白期間後の再結成時にも失われておらず、本人たちが誰よりも驚くこととなった。

デビュー準備期間中、上野のアイドル構想を雛型としながらもバンドの可能性を探る試行錯誤が繰り返され、英詞曲の採用や山本のヴォーカル参加といった当初の予定にはなかった選択もなされた。次第に若手天才ギタリストが率いる本格派ハードロックバンドとして売り出す機軸ができていった。その方向性が明確になったときに上野が協力を依頼したのが、当時、若手音楽評論家として洋楽ロックファンに高い知名度があった渋谷陽一である。

渋谷は自身がDJを務めていたNHK-FMの洋楽ロック専門番組ヤング・ジョッキーでレコードデビュー前のBOW WOWの英詞曲をハードロックリクエスト特集の回にリスナーからのリクエストがないにもかかわらず、かけ終わるまで日本の新人バンドと明かさずに紹介した。全国のロックファンに初めて聴いてもらったことを理由に、山本はこのときにかかった「Heart's On Fire」をデビュー曲として紹介するのが通例だが、デビューシングルは「ボリューム・オン」である。

楽器演奏と比べて著しく見劣りするヴォーカルを補うために専任ヴォーカリストの加入を勧める声がデビュー当初より絶えなかったが、そのままオリジナルメンバーでの活動を続けた。

このような経緯からわかるように、山本が指導力を強力に発揮して磨き上げたバンドではあるが、山本が中心になって結成したバンドでもなければ、山本のためにメンバーが集められたり再編成されたバンドでもない。イニシアチブは所属音楽事務所にあると認識しつつ各メンバーがベストを尽くし続けていたというのが第1期の実態である。山本は当時を振り返るときには「事務所に洗脳されていた」と笑いながら語る。

1975年、山本恭司(Vo,g)斎藤光浩(vo,g)佐野賢二(b)新美俊宏(dr)の4人でバンドを結成。

1976年、アルバム『吼えろ!バウワウ』でデビュー。

1977年1月、エアロスミスの初来日公演の前座に抜擢される。3月にはキッスの前座にも抜擢される。

1977年7月、2nd『SIGNAL FIRE』リリース。

1977年12月、3rd『CHARGE』リリース。

1978年3月、キッスの2度目の来日公演の前座を務める。

1978年6月、ライブアルバム『SUPER LIVE』リリース。

1978年12月、全曲日本語歌詞の4th『GUARANTEE』リリース。ファンの間で賛否両論を呼ぶ。

1980年2月、5th『GLORIOUS ROAD』リリース。このあたりから歌謡ロック路線になりデビュー当時から追いかけてきたファンが離れる現象を生む結果となってしまった。

1980年9月、アリス(当時)の矢沢透をプロデューサーに迎えた6th『TELEPHONE』リリース。

1980年11月、特撮マリオラマ『Xボンバー』のサントラ『組曲Xボンバー』リリース。

1981年4月、NWOBHMの煽りを受け、原点回帰とも取れる7th『HARD DOG』リリース。かつてのファンからも歓迎を受ける。

1982年4月、8th『ASIAN VOLCANO』リリース。この頃から海外でもバンドの名が知れ渡る。

1982年7月、スイスの音楽フェス『モントルー・ジャズ・フェスティバル』に日本代表として出演。

1982年7月?8月、新作レコーディングと『レディング・フェスティバル』出演の為にロンドンに滞在する。

1982年9月、9th『WARNING FROM STARDUST』リリース。

1983年春、ハノイ・ロックスと共に英国ツアーを行い、その時のツアーを収めたライブアルバム『HOLY EXPEDITION』を7月にリリース。

1983年11月21日、中野サンプラザ公演を最後に斎藤が脱退、BOW WOWの歴史に一旦幕が下りる。


VOW WOW時代

残された3人は1984年初頭、元NOIZのひとみげんき(人見元基)(Vo)と『B』時代からサポートキーボード奏者として参加していた厚見玲衣(key)を正式メンバーとして迎え、バンド名を「VOW WOW」に代えて世界規模の活動展開をしていった。山本は「B」時代のソロ作品で手がかりを得ていた音楽性を追求する上で申し分のない国内最高峰のロックキーボディストとロックヴォーカリストを得ることに成功したが、遠慮なく自己主張をするメンバーを迎えることにもなり、それまでにない大人なバンド運営の苦労を味わうことになった。また、すでに定評のあった山本、厚見、人見はもちろんのこと新美もドラミングスタイルの飽くなき工夫とともに評価は高まってきており、「B」から「V」への変化は、山本が率いる4人のハードロックバンドから、ハードロックを奏でる5人の有能ミュージシャン集団への変貌となった。ただし、そうなるとどうしても相対的に見劣りするのが、もともと本格的過ぎないように「B」のメンバーに選ばれていた佐野である。ベースのグレードアップを将来的にどうするかという課題がそこに生じることになった。

1984年6月に『V』としてのデビューアルバム『BEAT OF METAL MOTION』をリリース。人見の日本人離れしたソウルフルな歌唱力と「B」時代とは違うドラマティックな楽曲がヘヴィメタルファンの度肝を抜き注目されるようになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki