統一マレー国民組織(とういつマレーこくみんそしき、マレー語ではPertubuhan Kebangsaan Melayu Bersatu、英語ではUnited Malays National Organization、略称はUMNO、この項目では、以下略称で通す)はマレーシアの最大政党で、与党連合・国民戦線(Barisan Nasional)の創立メンバーである。マレー系住民の政党。
目次
1 歴史
1.1 独立前夜
1.2 ラーマンの時代
1.2.1 マレーシアとシンガポール
1.2.2 ラーマンの落日
1.3 ラザクの時代
1.3.1 国民戦線の成立
1.3.2 東マレーシアへの党勢拡大
1.3.2.1 サラワク州
1.3.2.2 サバ州
1.4 マハティールの時代
1.4.1 46年精神党の分裂
1.4.2 アジア通貨危機の克服
1.5 アブドラ首相の下で
2 イデオロギー
3 関連項目
4 参考文献
5 外部リンク
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1945年、現在のマレーシアと呼ばれている地域(マラヤ)は、第二次世界大戦終了後、再び、イギリスの植民地(マラヤ連邦)となった。しかし、マラヤ連邦は、数多くの反対に直面する。1946年5月11日、ジョホールバルにて、ダトー・オンを党首に迎え、UMNOが発足する。UMNOは、強硬にマラヤ連邦に反対するが、この段階では政治的実権を掌握していたわけではなかった。1949年、マラヤ連邦がマラヤ連合へ移行すると、UMNOは、政権奪取に焦点を移すこととなった。
1951年、これまで、UMNOを指導してきたダトー・オンがマラヤ独立党を結成すると、ラーマンが、UMNOの党首となった(詳細は、トゥンク・アブドゥル・ラーマンの項を参照すること)。同年、ペナン・ジョージタウンでの議会選挙において、急進勢力?中国共産革命の影響が多分にある--が勝利を収めると急進勢力の勢力拡大を危惧したマレーシア華人協会(以下MCAと省略)と提携を結び、クアラルンプールでの議会選挙でもジョージタウンの選挙のような自体を回避しようとした。結果として、12議席中9議席をUMNO-MCAアライアンスが獲得し、マラヤ独立党を解体に追い込んだ。また、各地で実施された議会選挙でもこのアライアンスは成功を収めた。
1954年に実施された州単位の選挙では、国家規模では、アライアンスは、268議席中226議席を獲得する勝利を収めた。ラーマンは、イギリスへ独立のための使節団を派遣したが、イギリスは、断固としてラーマンの要求を拒否した。
1955年、マレーシアで初めて実施された総選挙(1955年総選挙)では、インド系勢力を代表するマレーシア・インド人会議(以下、MICと省略)にもアライアンスを呼びかけ、現在の国民戦線政権の原型が完成する。この選挙では、1959年までのマラヤ連合の独立や全ての子供への初等教育の実施、マレー人特権の保護を維持するなどを公約に掲げ、UMNO単体では34議席、アライアンス全体では、52議席中51議席を獲得した(残り1議席は、全マレーシア・イスラーム党、以下PAS)。その結果、ラーマンが、マラヤ連合の初代首相となった。
1956年、ラーマンは、再度、イギリスに独立のための使節団を派遣した。独立のために準備されるマラヤ連合憲法が施行される1957年8月31日をもって、マラヤ連合の独立を勝ち取った。また、アライアンス政府は、マラヤにおけるイギリスとそれ以外の外資の試算の接収を行わないこと、イギリス軍のマラヤ駐留を認める条約を締結した。
ウィリアム・レイド卿率いるレイド委員会が、憲法の草案を起草した。連邦主義・立憲君主制といった概念が憲法に導入されると同時に、マレー人の特権の承認(これは、憲法3条、152条、153条で規定された)やイスラームが国教であることが明記された。マレー語が国語となったものの、華語・タミル語の教育も実施することが規定された。
こうして、1957年8月31日、ラーマンの手により、マラヤ連合の独立宣言がなされた。
1959年総選挙では、104議席中52議席をUMNOが獲得した(アライアンス全体では、MCA19議席、MIC3議席の74議席)。アライアンス全体が議会の絶対多数である3分の2以上を獲得したことは、政府の再編成と憲法改定を自由にすることを意味したが、アライアンスにとってすれば、この選挙は、内部対立で台無しになった選挙であった。というのも、MCAは、104議席中40議席を望んでいたからであり、ラーマンがこれを拒否したことで、MCAの一部がアライアンスを離脱したからである。
1961年、ラーマンは、マレーシア構想の実現に着手する。マラヤ連合に加え、サバ、サラワク、シンガポール、ブルネイのイギリス植民地をマラヤに編入することであった。この背景には、マレーシア構想の実現が、マラヤ中央政府による共産主義活動、とりわけ、シンガポールにおいて、取り締まることが可能になるからである。また、シンガポールが単独で独立を達成した場合、マラヤの君主制を脅かす存在になりかねなかった。シンガポールの人口の大多数が華人系で占められていたので、そのバランスをとるために、そのほかの州のマレーシア編入を企図したものであった。
多くの交渉を経て、憲法で合意が得られた。たとえば、マレー人の特権が全てのブミプトラに与えられた。とはいえ、必ずしも全ての州がマラヤ連合9州(すなわち半島部マレーシア)と同じ権利を得たわけではない。1963年7月の交渉をもって、同年8月31日にマレーシアへ改編されることとなった。このマレーシアには、先述のブルネイを除く州が参加することとなった。これ以後、マラヤをマレーシアと呼ぶこととする。
ただ、フィリピンとインドネシアはマレーシアの改編に対して反対した。インドネシアは、今回の改編を新植民地主義と非難し、フィリピンは、サバ州は自らの領土であると主張した。国際連合が、その調停に当たったが、インドネシア初代大統領スカルノはマレーシアとの対決姿勢を強め、東マレーシアに軍隊を派遣した。