Tu-114(2006年撮影)
用途:旅客機
製造者:ツポレフ設計局
運用者
アエロフロート
日本航空
初飛行:1957年11月15日
生産数:31機
運用開始:1961年4月24日
退役:1975年
運用状況:退役
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Tu-114(キリル文字:Ту-114)はツポレフ設計局によって開発され、ソビエト連邦で運用された長距離用ターボプロップ4発旅客機である。NATOコードネームは「クリート」(Cleat、滑り止めの意味)であったが、ソ連では「ロシア」(Россия、Rossiya)と呼ばれていた。
目次
1 概要
2 特徴
2.1 二重反転プロペラ
2.2 史上最大のプロペラ旅客機
2.3 「長い脚」
3 日本航空とアエロフロートとの共同運航
4 引退
5 要目
5.1 Tu-114D
6 関連項目
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元となった飛行機は1950年代よりソ連軍によって運用されていたTu-95爆撃機で、これを元に旅客用としてTu-116が2機製作された。Tu-116は30名搭乗することができ、このテスト結果を元にTu-114Dが製作された。
Tu-114Dとしては1960年10月3日に初飛行し、約30機がアエロフロートで運用された。また日本航空がモスクワ線就航時にアエロフロートとの共同運航で使用した機材もこれであり、機体に「Japan Air Lines」という文字と日本航空のシンボルマークでもある「鶴丸」がかかれたものもあった。
またこのTu-114からはTu-126早期警戒機が開発された。この機体には、新たに軍用の各種機材が積まれている。
この飛行機の外見上の最も大きな特徴は4基の二重反転プロペラで、これによりジェット機に匹敵する速度を生み出していた。また後退翼を装備するなど、ジェット機との共通点も多く見られ、また定員も最大220人と私たちが現在目にするプロペラ機とはスケールの違う物であった。
ソ連でもTu-104というジェット機が開発され、世界的に見てもジェット機が開発される時代に、わざわざ複雑な二重反転プロペラ式ターボプロップエンジンを原型機のTu-95が採用したのは、当時まだ燃料消費効率の良いターボファンエンジンは開発されておらず、既存のターボジェットエンジンを使用したのでは爆撃の目的地まで途中給油をせずに直行することが不可能だったからであり、この航続距離の長さという利点はそのままTu-114に引き継がれることになった。
事実この時代の西側を含めたどのジェット機と比べてもこのTu-114を上回る航続距離を持つジェット機はなく、また大きさも旅客機としてはダグラスDC-8-61型が登場するまで最も多く乗客を運ぶことのできる旅客機であった。そのことから、登場するとモスクワ?ハバナ間などのいままでのソ連機では到底就航不可能であった長距離路線に就航した。東京オリンピック時にもハバロフスク?東京間をピストン運行した。
しかしTu-114は当時の飛行機としては大きすぎ、誘導路が通れなかったり、滑走路の端をうまく回れなかったりした。またエンジンの騒音もジェット機に匹敵するほどあった上、二重反転プロペラのために独特な振動もあった。ちなみに同じソ連製のAn-22輸送機にはこのTu-114のエンジンと同じ物が積まれている。
また大きな二重反転プロペラのクリアランスを稼ぐために機体の脚を長くした結果、機体の脚が長すぎ専用のタラップを用意しなければならなかったりと、運用には苦労する点も多かった。機体の脚が長いために通常のジェット機やプロペラ機で使用するタラップでは高さが足りず、専用のタラップを必要としたのだ。
もし専用のタラップが用意できない場合には、通常サイズのタラップ車を横付けしてから機体に備え付けてある脱着式の短いタラップを取り付けた。これにより搭乗する場合は、一度タラップ車の階段を上ってからさらにTu-114の簡易タラップを上るような形になった。これはモスクワ?東京間などの西側諸国に就航する時や、ソ連の首脳陣の特別機として運行された際にも問題になった。
日本航空とアエロフロートとの共同運航が行われる際に、当初日本側はTu-114のように巨大な旅客機が羽田空港へ着陸するのは不可能だと訴えた。これに対しソ連側はツポレフ設計局に調査をさせ、着陸に問題がないことを確認した。なお羽田空港に専用のタラップがないことに対しては即座に対応し、An-12輸送機で専用タラップを羽田に届けた。しかし当時の日本のメディアの反応はこのような巨大なプロペラ機でモスクワ?東京間の無着陸飛行をすることに対し懐疑的であり、モスクワ?東京間の無着陸飛行はソ連のプロパガンダで羽田空港への着陸などは技術的に不可能だと考え、そのように報道した。