OSK日本歌劇団(おーえすけーにっぽんかげきだん)は、宝塚歌劇団、松竹歌劇団(SKD)と並ぶ日本の三大少女歌劇のひとつとして、かつて存在した劇団。OSKとは、以前の劇団名であった「大阪松竹歌劇団」(Osaka Shochiku Kagekidan) の略称。
目次
1 沿革
2 年表
3 主な公演
4 主な出身者
5 主な舞台作品
6 主な楽曲
7 本拠地・施設
8 その他
9 外部リンク
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かつて、宝塚歌劇団とは同じ関西でしのぎを削り、「歌の宝塚、ダンスのOSK」と並び称された。また同じ松竹が経営していたSKDは、OSKの後に東京を本拠とする劇団としてつくられ、大阪本拠のOSKとの棲み分けを図った。しかし、SKDが発足したことなどでOSKは東京での公演が長らく不可能となり(再開は創立70周年を迎えた1992年)、その間、宝塚は東京に東京宝塚劇場を設置して常時公演できる体制を整え、関東圏での人気・知名度で大きく差を付けられることになった。
1970年代以降は近畿日本鉄道(近鉄)の子会社となり、阪急電鉄が経営する宝塚に対抗しようとした。本拠地は奈良市のあやめ池遊園地円型大劇場であった。女性歌劇の人気が低迷していく中、宝塚が「ベルサイユのばら」「風と共に去りぬ」等ミュージカル作品の大ヒットで今日までの人気を築くのとは対照的に、低迷の一途をたどる。本来レビュー劇団であるにもかかわらず、ホテルや志摩スペイン村(テーマパーク)等のショーや、プロ野球球団の大阪近鉄バファローズの応援パフォーマンスにも出演する様になってしまった。しかしやがてホテル等での出演も激減し、業績が悪化。
劇団員の養成機関・日本歌劇学校も2000年より募集を停止し、2001年に休校。2002年6月に劇団員にも近鉄からの支援打ち切りが正式に通達され、2003年5月近鉄劇場公演「Endless Dream」を最後に解散し、81年の歴史に幕を下ろした。近鉄グループのリストラ策の一環であった。なお解散時の出資比率は近鉄が15%、子会社の近鉄興業=解散が85%。翌年にはバファローズも同様に解散し、あやめ池遊園地も2004年に閉園した。
しかし、劇団の存続を求める市民や団員らによって、新たな劇団「NewOSK日本歌劇団」(現在は再び「OSK日本歌劇団」の名を復活)が設立され、OSKの伝統は形を変えながら今でも息づいている。
年表
1922年4月 「松竹楽劇部」として創設
1928年 浅草松竹座で初の東京公演(のちに東京からは撤退)
1933年 大阪劇場(大劇)が開業、本拠地に
1934年 「大阪松竹少女歌劇団(OSSK)」に改称
1943年 「大阪松竹歌劇団(OSK)」に改称
1950年 近鉄あやめ池遊園地で初興行
1956年3月 あやめ池遊園地内に円形大劇場と養成所が完成、定期公演を開始。
1957年 松竹本体から「株式会社大阪松竹歌劇団」として分離。千土地興行と近畿日本鉄道が経営に参加。この年封切りのハリウッド映画アカデミー賞作品「サヨナラ」に劇団が出演。
1963年 「日本歌劇団(NKD)」に改称。同年3月に大劇にて舞台稽古中に事故が発生し41名が重軽傷
1967年 大阪劇場が閉鎖、あやめ池に本拠地を移転
1971年 近畿日本鉄道が子会社化して「OSK日本歌劇団」(株式会社日本歌劇団)となる
1985年10月 大阪・上六の近鉄会館を改装して近鉄劇場が開業し、大阪における新しい拠点に
1988年 東大阪市に本社事務所を移転、稽古場を併設
1992年 創立70周年を記念し、東京公演を再開
1997年 近鉄バファローズの大阪ドーム移転に伴い、若手20名を起用して「OSKチアリーディングチーム」結成
2001年 養成所「日本歌劇学校」の新規募集を停止
2003年5月 親会社の近畿日本鉄道の支援打ち切りで解散
2003年6月 元団員有志が「OSK日本歌劇団存続の会」として新たなスタートを切る
2004年10月 社名を「株式会社OSK日本歌劇団存続の会」から「株式会社NewOSK日本歌劇団」に変更
2007年10月 大阪地裁から民事再生手続きの廃止決定を受け、破産手続きに入る
商標、著作権、衣装、舞台装置などは「ワンズカンパニー」に譲渡され、再び「OSK日本歌劇団」を名乗る
主な公演 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
あやめ池公演 - 春と秋の2回
近鉄劇場公演 - 春に特別公演を実施。劇団員の初舞台公演
主な出身者
笠置シヅ子(歌手):1927年大阪松竹楽劇部に入団。1936年までの芸名三笠静子
秋月恵美子:1930年入団。1973年舞台引退後、日本歌劇学校講師を務める
芦原千津子
高橋純子
メリー喜多川