「1791年5月3日憲法」(ポーランド語:Konstytucja Trzeciego Maja)は、近代的な成文国民憲法としてヨーロッパで最初のものであり、世界でも米国憲法に次ぐ2番目のものとして知られている。[1][2][3] この憲法はポーランド・リトアニア連合王国(以下ではポーランドと記載)の法律(ポーランド語:Ustawa rz?dowa)で、5月3日に議会(セイム)で採択された。
5月3日憲法は、ポーランドの独特の伝統である「貴族共和制」における政治的欠点を取り除くことを目的に制定された。この憲法では、市民と貴族(シュラフタ)とを政治的に平等と定めた。また、農民を政府の庇護下に位置づけ[4]、農奴制という悪習の軽減を図った。さらに、害が多い議会制度を廃止した。例えば任意拒否権も廃止されたが、かつてはこの任意拒否権によって、利害関係者や外国から買収された議員が議会で立法された法律を簡単に取り消してしまっていた。5月3日憲法は、復古的な有力者達が暗躍する当時の無政府状態を、比較的平等主義かつ民主主義な立憲君主制で取って代えようとしていた。[5]憲法の文面はリトアニア語にも翻訳された。[6]
5月3日憲法の採択は、ポーランドの周辺国の警戒心を惹きつけ、戦争を招くことになった。ポーランドは、1792年にエカチェリーナ2世のロシア帝国から攻撃を受け、同盟を結んでいたフリードリヒ・ヴィルヘルム2世のプロイセンに裏切られたこともあり、敗戦した。この戦争でロシア帝国は、改革で既存権力を失うことを恐れるポーランドの大貴族が結成したタルゴウィツァ連盟と結託した。敗戦の結果、2回目のポーランド分割が行われ、領土の一部をロシア帝国とプロイセンに奪われることになった。1795年の3回目のポーランド分割によってポーランドは消滅したが、復活するまでの123年間、5月3日憲法は民主主義によるポーランドの主権回復闘争を導くかがり火となった。イグナツィ・ポトツキとフーゴ・コウォンタイ(Hugo Ko???taj)の共著の言葉によると、この憲法は「亡くなった母国の最後の遺言」だった。5月3日憲法の原稿元本
目次
1 歴史
1.1 背景
1.2 起草から採択まで
1.3 転落
1.4 後世への影響
2 特徴
3 祝日
4 関連項目
5 参考資料
6 外部リンク
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1791年に5月3日憲法が策定された理由は、ポーランド・リトアニア連合王国(以下ポーランド)の陥った危機的状況を打開するためである。その2世紀足らず前まで、ポーランドはヨーロッパで最大の強国だった。しかしそれ以前(16世紀)にすでに、当時の王ジグムント3世に仕えたイエズス会宮廷牧師のピョトル・スカルガが、ポーランド市民の集団または個人としての欠点を指摘していたのである。また同じ頃、アンジェイ・フリチュ・モドジェフスキ(Andrzej Frycz Modrzewski)、ヴァヴジニェツ・グジマワ・ゴシリツキ(Wawrzyniec Grzyma?a Go?licki)、ヤン・ザモイスキ(Jan Zamoyski)ら作家や哲学者により、改革を主張する「法の遂行」運動が起こっていた。
17世紀初頭までに、ポーランドの支配のほぼ全てを大貴族達(マグナート)が掌握した。言葉を変えると、大貴族たちは、自らの特権を危うくする改革が決して起きないような支配体制を作り上げた。彼らは、自分達の晩餐会やあらゆる娯楽に気前良く浪費する一方で国民を軽視し、小作農たちは劣悪な条件に苦しむことになった。また、地方自治の法律の改悪によって、一般市民の暮らし向きは、他の西欧諸国の豊かさと比較にならないほど悪化した。
多くの歴史家は、この時代のポーランドが没落した最大の原因は任意拒否権制度にあると指摘している。任意拒否権は1652年に創設された制度で、議会(セイム)の全議員に、議会を通過したあらゆる法律を取り消す権利を認めていた。大貴族や外国から買収された議員や、前世紀の「黄金時代」が続いていると勘違いしている愚かな議員たちが任意拒否権を乱用し、政府は混乱してマヒ状態に陥ってしまった。後に任意拒否権の害悪を取り除いたのが、任意拒否権の適用外とされる連合議会(confederated sejm)の創設である。5月3日憲法を採択した1788年から1792年の「4年議会」(偉大な議会)も連合議会であり、だからこそ、このように急進的な法律が通過できたのである。
さて、ポーランド王国の最後の王スタニスワフ2世の治世(1764年?1795年)には、ポーランドにも啓蒙時代が訪れていた。王は慎重に改革を進めた。財務省と国防省が創設された。国家としての関税が新に決められた。憲法の改革も徹底的に議論された。ところが、周辺諸国はこの改革を危険視していた。それというのも、周辺諸国にとって国境を接するポーランドは重要な国であり、ポーランドが強化されて民主化までされることを、脅威と感じていたからである。
ロシアの女帝エカチェリーナ2世とプロイセンの王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の干渉によって、議会保守派とスタニスワフ2世との間に、宗教少数派の権利を巡る対立が起こった。