1848年革命( - ねんかくめい)は、1848年にヨーロッパ各地で起こった革命。ウィーン体制の事実上の崩壊へと突き進んだ。
2月にフランスで勃発した2月革命は、翌月以降にはヨーロッパ各地に伝播し3月革命となった。1848年の春に起こったこの2つの革命を総称して「諸国民の春」ともいう。
この項では1848年の2月革命と3月革命を1848年革命として一括して扱う。
目次
1 フランス2月革命
1.1 発端
1.2 推移
1.3 影響
1.3.1 社会主義への影響
1.3.2 ヨーロッパ各地への伝播
2 ドイツ・オーストリア3月革命
2.1 発端
2.2 推移
2.2.1 オーストリア
2.2.2 ドイツ
2.2.3 フランクフルト国民議会
2.3 影響
3 関連項目
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1830年のフランス7月革命の結果即位したルイ・フィリップはブルジョワジー寄りの政策を採ったため、労働者、農民の不満が高まった。7月革命では一定の選挙権の拡大が行われたものの、こうした身分層までの選挙権拡大は行われなかった。
こうした不満の捌け口は改革宴会(革命宴会)という集会(選挙権の拡大や、労働者・農民の諸権利を要求する政治集会だが、名目上宴会ということにして実施していた)によってある程度のガス抜きが行われていたが、2月22日にある改革宴会が政府の命令によって強制的に解散させられると、これに激高した労働者、農民、学生のデモ、ストライキに発展した。
この革命はそれまでのフランス革命やフランス7月革命とは異なり、以前のブルジョワジー主体の市民革命から、労働者主体の革命へと転化した。
革命勃発の翌23日には首相のフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーが退任し沈静化を図ったが、24日には武装蜂起へと発展。ついに国王ルイ・フィリップが退位、ロンドンに亡命して、事態の終結が図られた。
同日に臨時政府が組織され、ここに第二共和政が開始された。
革命の影響は大きく、その後フランスに国王が現れる事は無かったし、革命はフランスに留まらず、ヨーロッパ各地に伝播し、ウィーン体制の崩壊に繋がった。この後、フランスでは、王制は廃止され、1848年憲法の制定とともに共和制に移行した。これをフランス第二共和政という。11月に大統領選挙が行われ、ルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出された。その後、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、ウィーン体制の崩壊の間隙を突き、1852年にフランス第二帝政を開始するのである。
社会主義への影響
この革命には、当初から社会主義者が荷担しており、共和国旗である三色旗に混じって赤旗も振られた。
この時代の社会主義に対する期待の高まりが見て取れるが、結果としてルイ・ブラン等この革命に荷担した社会主義者が臨時政府の中で有効な手立てを打てない事が明らかになると、彼らは、農民の支持を失い翌年4月の選挙で落選してしまった。これは、農民がフランス革命・ナポレオン戦争を経てようやく手に入れた土地を、社会主義派に「平等」と称して奪われる事を恐れたためである。
2月革命はヨーロッパ各地へ伝播し、この内、特にドイツ連邦、イタリア、イギリスで起こった運動を3月革命と言う。
ドイツ連邦:1848年3月、ウィーンでの革命により、宰相メッテルニヒは英に亡命した。これにより、ウィーン体制は事実上、崩壊した。また同じ頃、ベルリンにて暴動がおき、カプンハウゼンによる自由主義内閣が成立した。しかし、ドイツ統一まで後一歩、という所でプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がドイツ国王就任を拒否したのでドイツ統一はならなかった。これは、オーストリアで起きていた、スラブ系・ハンガリー系の独立の失敗へと繋がる。
イタリア:1848年ダニエーレ・マニンがヴェネツィアで蜂起、ヴェネト共和国を建国。オーストリアの攻撃により、1849年降伏。サルデーニャ国王カルロ・アルベルトが、対オーストリア宣戦(第1次イタリア独立戦争)。敗北、失敗する。1849年青年イタリア党の蜂起。