高橋尚子
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五輪優勝・世界記録達成

同年9月24日のシドニー五輪女子マラソンでは、18km付近で高橋自ら先頭集団を抜け出しスパート、この時点で世界記録保持者のテグラ・ロルーペは脱落、一気に集団がばらける。その後26km辺りからリディア・シモン ルーマニア)と激しくデッドヒートを演じるが、高橋は34km過ぎでかけていたサングラスを沿道の父親に投げ飛ばしたと同時に、ロングスパートをかけてシモンを突き放した。スタジアムのトラックでシモンに追い上げを受けるも、そのまま逃げ切り日本陸上界悲願の優勝ゴールテープをきった。五輪での高橋の常にレースを引っ張る堂々たる走りは、ゴール後のさわやかな笑顔とともに、世界のマラソンファンに強い印象を与えた。

高橋の五輪での金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶり戦後初の快挙であるとともに、日本女子陸上界においては史上初の快挙だった。またゴールタイムの2時間23分14秒は、ジョーン・ベノイト アメリカ合衆国)がロサンゼルス五輪でマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録である(この記録は今もなお破られていない)。これらの功績により国民栄誉賞を受賞(2008年現在、高橋は最後の国民栄誉賞受賞者である)。

2001年9月30日ベルリンマラソンでは、女子初の2時間20分突破となる2時間19分46秒の世界最高記録(当時)で優勝。前世界記録保持者はテグラ・ロルーペ ケニア)の2時間20分43秒で、1分近くの更新であった。この高橋の世界最高記録樹立での優勝は、女性初のサブ20での歴史的快挙とともに、日本女子マラソンがついに世界最高記録を更新した瞬間でもあった。(2008年現在、高橋は女子マラソン世界記録を更新した、ただ一人の日本人選手である。また女子マラソン世界記録保持者が五輪金メダルを獲得した選手としてはアメリカのジョーン・べノイトのみいるが、五輪金メダリストとして女子マラソンの世界記録を更新した選手は日本の高橋のみである)。

(現在の世界記録保持者はポーラ・ラドクリフ イギリス))。

高橋は翌2002年9月29日のベルリンマラソンにも出場。2時間21分49秒の記録で2年連続優勝を果たし、フルマラソン6連覇を達成した。ベルリン出走からわずか1か月半後の200211月17日東京国際女子マラソンへの出場も睨んでいた。しかし、東京のレース数日前に胸の激痛が引かない為診断した結果、肋骨疲労骨折を起こしている事が判明し東京は欠場、この為、連覇を狙う五輪代表最短切符になる2003パリ世界陸上は断念する事になった。


スカイネットアジア航空(佐倉アスリート倶楽部)時代

その後高橋は2003年2月に積水化学を退社、同年6月にはスカイネットアジア航空スポンサー契約を結び(2005年5月迄)、前年12月に同じく同社を退社した小出監督の指導を引き続き受けることとなる。

2003年11月16日の東京国際女子マラソンで、翌2004年アテネオリンピック代表選出を目指して出走。この時期の平均気温より約10℃高い、季節はずれの気温24?25℃という高温と風速3?6mの風の舞う中、スタート直後から高橋自ら飛び出しハイペースでレースを展開、中間点を過ぎてからスパート、独走状態となり完全に勝負はついたと思われたが、30km手前からスタミナ切れを起こしたのか急激に失速してしまう。39km地点で ⇒エルフェネッシュ・アレム エチオピア)に抜かれて、日本人トップの座は死守したものの、ゴールタイムは2時間27分21秒でまさかの2位と6年10ヶ月ぶりに敗れ、マラソンの連勝記録も6でストップとなってしまった。その後、代表選考は選考基準が不明瞭であるため難航することになる。コース・気象条件なども違う東京、大阪、名古屋の3レースの上位選手から2名を選ばなければならず、結局、優勝出来なかった事とゴールタイムも悪かった事などの理由で日本陸連の選考で落選。高橋のアテネ五輪代表の切符獲得はならず五輪連覇の夢は潰える事になった。

しかし、これまでの高橋はシドニー五輪以降も毎年マラソン大会で高いレベルの記録で優勝という結果を残した、連戦連勝の五輪ディフェンディングチャンピオンであり、また女性で初めて2時間20分突破となる世界記録まで樹立した日本記録保持者(当時)。実績を全く考慮することなく、五輪連覇への挑戦が潰えたことを惜しむ人々の声も非常に多く賛否両論で大きな騒動となった。テレビ各局は高橋と小出監督の会見をNHKなど全局生放送で伝え、翌日の一般紙・スポーツ紙の各新聞社は全紙、高橋落選を一面トップで伝えた。


ファイテン(チームQ)以後

2005年5月9日、リクルート時代からの約10年に及ぶ小出との師弟関係を解消する事を発表。高橋と小出が二人揃っての記者会見を行なった。

2005年6月ファイテン2009年5月までの4年間の所属契約を結んだ。なお同社陸上部とは別に「チームQ」として活動。

2005年11月20日、東京国際女子マラソンに出場。右足のふくらはぎに軽い肉離れのケガを抱えている事を、レース前日に表明するなど体調は万全ではなかったが、終盤の35km過ぎに高橋自らスパートしてからは、2年前まさかの失速で優勝をさらわれたエルフェネッシュ・アレムなどをおきざりにして独走となり2時間24分39秒でゴール、2年ぶりのマラソン復帰レースを優勝で飾った。

200611月19日、2年連続で東京国際女子マラソンに出場したが、31km付近で優勝した土佐礼子に突き放され、39km地点では2位の尾崎朱美にもかわされる。右足ふくらはぎに抱えた怪我があったことなどにより(ゴール後の記者会見で高橋自ら表明)、3位という不本意なフィニッシュとなった。本来なら調整ミスのため不参加の決断が適切だったと思われたが、スポンサーとの関係などのため強行出場だった。しかし重要な大会を前に毎回何かしらの故障を起こす現状に、チームQの体制、ひいては本人の力の衰えを指摘する声が挙がった。2007年名古屋国際女子マラソンに出場して再度、2007年大阪世界陸上を狙うか注目されたが怪我の状況、体調面などを考慮してチームの方針として断念する事になった。

2008年北京オリンピックの女子マラソン代表入りは、その後の国内選考レースで挑戦する事となり、2008年3月9日の最終選考会である名古屋国際女子マラソンに出場を決めた。しかしその名古屋のレースでは、序盤の9km手前で早々スローペースの先頭集団についていけなくなり、ズルズルと遅れ出す。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki