高宗_(朝鮮王)
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勢道政治

先王哲宗の時代は、安東を本貫にする安東金氏外戚として政権を掌握し、勢道政治を行っていた。その期間は59年間に及び政治は荒れ果てており、王族の中からも安東金氏の打破を望む勢力が生まれていた。その中の筆頭が興宣君李?応と先々代王憲宗の母で孝明世子嬪であった神貞王后趙氏であった。


摂政就任

1863年12月8日哲宗が32歳で亡くなる。哲宗の子は娘1人であり、息子5人が産まれていたが全て夭折していたため、直系の世継ぎ候補が居なかった。そのため傍系王族の誰かを王位につける必要が生じた。ここで、世子(跡継ぎ)が決められていない場合の王位継承権の決定権を持つ神貞王后趙氏は李?応と謀り、李?応の次男・命福を孝明世子憲宗の父)の養子とし、12月13日にそのまま即位させた。これが高宗である。父・李?応は興宣大院君に封ぜられ(「大院君」は、王の実父に与えられる称号)、このとき高宗は11歳であったため摂政の任に就いた(公式的には神貞王后が摂政)。


興宣大院君の鎖国政策

興宣大院君は安東金氏の勢道政治を打破し、国内改革を行っていたが、迫り来る西洋の列強諸国に対する対外策はあくまでも鎖国攘夷であり、決して国交を結ぼうとしなかった。また、カトリックの弾圧を繰り返し行った。1866年フランス人神父らを殺害(丙寅邪獄)すると、その報復としてフランス艦隊が軍艦7隻を持って江華島を占領したものの、これを追い払った(丙寅洋擾)。

また、同時期に通商を求めてきた商船ジェネラル・シャーマン号も焼き討ちして沈めてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。この抗議として1871年、アメリカ軍は賠償と通商を求め、軍艦5隻を持って江華島を占領するが(辛未洋擾)、大院君は交渉に応じず、アメリカ軍も1ヶ月で引き上げざるを得なかった。


閔氏の時代

1866年閔妃が王妃として王宮へ入ると、大院君は閔妃と対立を始め、閔妃を中心とした閔氏一族と崔益鉉らの儒者勢力、政敵安東金氏の勢力を中心に、大院君排除の為の動きを見せていた。これらの勢力が結託し、1873年、高宗が成人すると親政を宣言し、崔益鉉の弾劾を機に大院君は追放される。代わりに政権を握ったのは閔妃の一族である閔氏であった。高宗は性格的に気の強い閔氏に頼るところが多く、政権を握った閔妃は閔氏一族を要職につけ、以後閔氏一族による勢道政治が始まる。

閔妃派が勢力を握ると、国内の情勢は鎖国から開国へ傾きかけ、開化派勢力が台頭してくる。1876年日朝修好条規(江華島条約)が締結される。これをきっかけに、アメリカフランスロシアとも通商条約を立て続けに結んでいくことになる。ロシアの南下政策に対し、・日本・アメリカと協力しこれに対抗するという動きも見せ始めた。しかし国内の政治は、開化派と守旧派勢力(衛正斥邪派)との対立が深刻化していた。大院君もこの動きに連動し、高宗の異母兄を王位につける国王廃立の動きを見せていた。高宗と閔氏一族は、衛正斥邪派を弾圧することによって政局混乱を収拾を試みるが、政治の混乱は更に激しくなった。興宣大院君閔妃

1882年、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ壬午軍乱が発生する。壬午軍乱によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は袁世凱に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。大院君は清国へ連れ去られ、清国は朝鮮の治安維持の目的で、3000の兵を朝鮮国内に駐屯させた。一方、この軍乱により日本大使館を襲撃され、多くの日本人が殺害された日本も軍艦を朝鮮半島へ向かわせ、賠償を要求。済物浦条約により賠償金の支払いと邦人保護のための軍隊駐留を認めさせる。この事件により、清と日本の軍隊が朝鮮国内に駐留することになり、朝鮮の軍事権は深刻なダメージを受けた。


清への事大

一方閔妃は、この事件により清に事大していくことになり、開化派の反発を受ける様になる。1884年、開化派金玉均を中心とした勢力は甲申政変を起こして閔氏一族を排し、一時政権を握ったものの、駐留清軍により駆逐され失敗に終わる。

高宗と閔妃は清への事大主義に傾倒していくが、対外政策も国内政策も混乱を極め、国内では東学党を中心とした勢力が農民の間に広まり、「保国安民」と「弊政改革」を旗頭に1894年東学党の乱(甲午農民戦争)を勃発させる。この混乱を朝鮮王朝は収拾できず、清軍へ援軍を依頼、一方日本は邦人保護を理由に軍隊を動員し、日清戦争1894年-1895年)の原因になる。この戦争は、欧米列強の支持を受けた日本軍の勝利に終わり、下関条約を締結する事になる。これにより朝鮮は、清の属国の立場から独立国家として承認される事になるが、清の後盾を失った閔妃は、今度はロシアと結んで日本に対抗しようとした。


閔妃暗殺事件

この動きを警戒した開化派や朝鮮に戻っていた大院君などの勢力が閔妃排斥の動きに出て、1895年10月8日閔妃暗殺事件乙未事変)が起こっている。これは朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った朝鮮国軍部大臣を始めとする朝鮮軍将校や朝鮮王室親衛隊将校[1][2][3][4]日本公使・三浦梧楼と軍人が宮廷に乱入し閔妃と女官を惨殺した事件であるが、首謀者は大院君であると言う説もある。犯人として李周会、朴銃、尹錫禹の三名が死刑とされたが、三浦梧楼など日本人は嫌疑不十分として釈放された。

閔妃暗殺事件に日本軍が関わっていたと報じられると、国内の中は親日派勢力と反日勢力が対立し、カウンタークーデタとして春生門事件(1895年11月28日)を起こし、金弘集総理らを殺害し王を奪おうとした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki