1980年代に中華人民共和国の改革開放政策が進展し、香港の製造業は国境を越えて中華人民共和国側に進出、香港は金融、商業、観光都市となっていった。マーガレット・サッチャー首相
マーガレット・サッチャー首相はイギリスが引き続き香港を管理できるよう求めていたが、中華人民共和国は「港人治港」を要求してこれに応じず、ケ小平はサッチャー首相にイギリスがどうしても応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。サッチャーはケ小平との会談を終えて人民大会堂を出る時、足元がふらついたという。
1984年12月19日,中英双方が署名した中英共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の一特別行政区となることが明らかにされた。この中で中華人民共和国政府はケ小平が提示した「一国両制」政策をもとに社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。
この発表は共産主義政府である中華人民共和国の支配を受けることを喜ばない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。
その後1989年に北京で六四天安門事件が発生すると、香港では民主派支持の大規模デモが行われ、専制的で強権的な中華人民共和国の本質が明確になったとして再び移民ブームが巻き起こった。大部分の香港移民はトロント、バンクーバー、シドニー、シンガポールに向かった。
1990年4月4日、香港基本法が制定されると、香港人の不安は一応、沈静化した。しかし、1992年にクリストファー・パッテンが香港総督として着任すると、返還を前に香港の政治的な民主化を加速させたため、中華人民共和国との関係が緊張した。ただ、このような政治的動揺や移民の大量流出にもかかわらず、経済的には中華人民共和国資本の流入によって返還前の香港の不動産市場や株式市場は空前の活況を呈した。
1997年7月1日、香港は正式にイギリスから中華人民共和国に返還され、最後の総督パッテンは香港を去った。パッテン時代に直接選挙を実施した立法局は、北京が成立させた臨時立法会に取って代わられ、中華人民共和国政府と深い関係にある富豪の董建華が初代香港特別行政区行政長官となった。これまで香港に君臨してきたユニオンジャックとエリザベス2世の肖像は姿を消し、五星紅旗が香港に翻った。
返還後の香港市民による民主化要求デモ(2005年)
中華人民共和国が香港の外交権と軍事権を掌握し、イギリス軍に代わって人民解放軍部隊が香港に進駐、これまでの英語、広東語とともに普通話(標準中国語)も香港の公用語となり、学校でも教えられるようになった。しかし、基本的な社会経済制度は変わらず、法体系もイギリス領時代のコモン・ローがそのまま用いられている。
香港返還直後に始まったアジア通貨危機の影響で香港の不動産価格は大暴落し、中華人民共和国との貿易の中継基地としての役割も次第に減少して香港の失業率は上昇、香港の衰退がささやかれた。とりわけ2003年には隣接の広東省が発端となったSARSが香港でも急速に拡大し、2000人が感染、299人が死亡する事態となり、観光客は激減、香港経済は大打撃を受けた。
また、中華人民共和国中央政府による圧力のため、新聞や雑誌などに対する有形無形の言論統制が行われるようになったことで、市民の不満が鬱積するようになった。
あまりにも中華人民共和国寄りで香港市民に不評だった董建華行政長官は2005年3月12日に辞任し、全国政治協商会議副主席に転じ、曽蔭権が長官代理となった。新行政長官選挙は2005年7月に行われ、曽蔭権が正式に行政長官に就任した。また9月には新香港国際空港近くに香港ディズニーランドがオープンし、香港再生が期待されている。
関連項目
香港の戦い
大英帝国
中国の歴史
マカオの歴史
⇒zh:香港日治時期(中国語)
外部リンク
⇒香港史(中国語)
⇒Hong Kong History(英語)
⇒香港の基礎知識
カテゴリ: 香港の歴史 | 都市史
更新日時:2008年8月18日(月)10:37
取得日時:2008/08/30 15:20