香淳皇后
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皇后時代

1926年昭和元年)12月25日、昭和天皇の即位に伴い立后。1927年(昭和2年)、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生するも、翌1928年(昭和3年)に敗血症のため夭折。皇后は自ら死化粧をほどこし、天皇も禁を破り通夜に出席した。同年11月10日、即位の大礼が京都御所で盛大に執り行われた。1929年(昭和4年)、宮城(きゅうじょう:当時の呼称)に住いを移す。この後、なかなか男児を得られず、華族たちから「皇后さまは女腹」と言われ非難され、側室制度の復活が本格的に検討された。彼女も心労とプレッシャーに苦しむが、この案は昭和天皇が自ら拒否した。1933年(昭和8年)12月23日継宮明仁親王が誕生。待望の皇子誕生とあり、日本全体から盛大に祝賀を受ける。継宮明仁親王を抱く皇后

一方この頃より、皇女は学習院前期(小学校)入学とともに天皇・皇后の手元を離れ呉竹寮で養育される。これは天皇の元では養育係が仕え辛く、その結果わがままに育ったと言う批判に加え、将来的に降嫁することに備えるためである。また、天皇家の神格化が推進され、明仁親王に至っては1937年(昭和12年)より東宮仮御所にて養育された。土日以外は親子とは言え、会うことはできなくなった。皇后は親王のために好物の豆腐料理を手ずから用意していたが、親王が皇后の手料理を口にすることはなかった。

第二次世界大戦中は昭和天皇とともに東京に留まり、心労の多かった夫を支えたといわれる。またこのころには、「皇后は天皇の仕人」とされたため天皇の車に同乗できなくなったともいう。戦中の食糧難の折には、天皇と夕食をともにする際、二人で相談して、かならず料理の一皿か二皿を残し、侍従女官に下げたという。戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で野菜を作り養鶏も行った。敗戦後は引き揚げ者のための布団や着物作りを行なった。

皇室の在り方が一変して後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。1947年(昭和22年)の日本赤十字社名誉総裁就任をはじめとして、1952年(昭和27年)以降の全国戦没者追悼式1964年(昭和39年)の東京オリンピック開会式、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会式、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの出席はその例である。靖国神社への天皇親拝にも度々同行している。

また皇女たちの結婚にあたり、長女・成子内親王の例から、娘達の意思を尊重するためのお見合いデートをすすめた。その一方で、皇太子と平民出身である美智子との婚約が決定された際には秩父宮妃勢津子及び高松宮妃喜久子、側近の松平信子らと共に強い不快感を示している。入江相政日記においては、松平信子が宮崎白蓮などと示し合わせて右翼団体を動かし婚姻反対を運動させようとしたと記されており、この問題は後々まで尾を引くことになった。香淳皇后は成婚以後は表だって美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年(昭和50年)の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されている。美智子妃との関係は礼宮文仁親王の出生後、文仁親王の容貌が自身によく似ていたことから徐々に氷解に向かったという。

1960年(昭和35年)11月、降嫁していた東久邇成子が病に倒れる。すでに末期がんで、翌年4月からは宮内庁病院に入院。皇后はほぼ毎日、私事のため人目を避けながら見舞いに訪れた。しかし7月に成子が死去。天皇ともども、愛娘の死に大きな衝撃と悲しみを受けた。内孫である浩宮徳仁親王の存在が慰めになり、大変かわいがったという。

また、昭和40年台前半の入江相政日記においては、皇后が絶大な信頼を置いた今城誼子の問題が頻出している。新興宗教に深く関わり、粗暴な言動で周囲の顰蹙を買っていたことから今城は入江の日記には「魔女」のニックネームで登場する。今城は、皇后を通して当時簡略化が進められていた宮中祭祀に口を挟む、天皇皇后の欧州歴訪において自身の同行を求めるなど、侍従長の入江相政以下の天皇側近はこの問題に頭を痛めることになり、天皇の支持を取り付けた上で、昭和46年に今城を宮内庁から事実上追放する。1975年、米フォード大統領夫妻と天皇夫妻

1971年(昭和46年)には天皇と共に訪欧。皇后にとっては、これが初めての外国訪問となった。1974年(昭和49年)には金婚式を迎え、記者団の楽しかった思い出という問いに、天皇・皇后ともに先の欧州訪問をあげた。翌年の訪米にも行を共にした。

1976年(昭和51年)には天皇在位50年記念式典に出席し祝賀を受けるものの、この前後から老いの兆候があらわれ、翌年の夏に那須御用邸で腰椎を骨折、長期間那須に滞在し治療が遅れたため完全な回復は不可能な状態となる。これ以降老いの兆候は顕著になった。歩行に際しても杖を用いることが多くなり、散歩のさい天皇が手を引く姿も見られた。また、式典の際にも北白川祥子女官長らが介添えしていた。

可能な限り式典への出席を続けていたが、1986年(昭和61年)の新年参賀・天皇誕生日参賀を最後に出席できなくなり、9月30日以降は日課にしていた散歩もとりやめるようになった。やがて車椅子を頻繁に利用するようになる。


皇太后時代

1989年(昭和64年)1月7日昭和天皇崩御し、皇太子明仁親王践祚にともない皇太后となる。この年には昭和天皇の他に、第三皇女・鷹司和子、実妹の大谷智子が死去した。これ以降、その動静が伝えられることがまれになり、メディア等への露出も少なくなった。

1994年(平成6年)、後冷泉天皇皇后藤原寛子の数え年92歳を抜いて、歴代最長寿となった。最晩年には認知症の症状があったともいわれる(マスメディアでは「老人特有の症状」と伝えられることが多かった)。

2000年(平成12年)6月16日老衰による呼吸不全のため皇居吹上大宮御所で崩御した(皇太后の死は「崩御」とよばれる例であるが、マスコミの殆どが「逝去」と報じた)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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