1903年(明治36年)3月6日、久邇宮邦彦王の第一王女子として誕生。良子と名づけられ、久邇宮良子女王と号す。
1907年(明治40年)9月2日、学習院女学部幼稚園に入園。幼稚園では皇族は別室で昼食をとるが、そのとき妹・信子女王の他、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)・淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と一緒であった。優しい一方運動神経に優れ(昭和天皇からゴルフを教わり、度々天皇を負かしたと伝わる)しっかりとした性格で、二人の妹が彼女の行動を全て真似ることもあったという。
同小学科を経て(1909年入学)、1915年(大正4年)には学習院女学部中学科進学。在学中の1918年(大正7年)1月14日に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の妃に内定。内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、明治天皇が久邇宮家を気にかけていたこと等が挙げられる。内定にともない学習院を退学し、同年4月13日以降久邇宮邸内に設けられた学問所で皇后としての教育を受ける。学問所は"お花御殿"と呼ばれ、妹たちの他・親しい学友が学習院の授業を終えた後に通い、ともに学んだ。学問所の建物はその後東京都立駒場高校に下賜され、部活動等に利用された。
1920年(大正9年)5月7日に皇太子裕仁親王が元服礼を行ったことをうけて、同年6月10日に正式に婚約が内定する。しかし、1921年(大正10年)に入って母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退をせまったいわゆる"宮中某重大事件"がおこる。事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、なかでも宮中に影響力を保持しようとする山県の策略とする見解が強かったため良子女王に同情があつまり、原敬らの反山県勢力が山県追落しにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年2月10日に宮内省から「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」の発表が行われて事件は決着した(翌日づけで新聞記事解禁)。最終的な決めてのひとつが、生物学者でもあった天皇の決断であったといわれている。
学問所での教育は2・3年前後の予定であったが、宮中某重大事件、さらに関東大震災の影響により婚儀は延期され続けた。
皇太子妃時代成子内親王を見守る皇太子裕仁親王と良子妃
1922年(大正11年)6月20日、結婚について大正天皇の勅許がくだり、9月18日に納采。同日付で勲一等宝冠章を受章する。翌1923年(大正12年)の内にも婚儀の予定であったが、関東大震災の惨状を目の当たりにした裕仁親王が自ら延期した。
1924年(大正13年)1月26日に結婚。皇太子妃となり、赤坂の東宮御所に住まう。裕仁親王との関係はこの頃より円満で、当時も手をつないで散歩をしていたという。1925年(大正14年)12月6日には第一皇女・照宮成子内親王が誕生する。良子は乳人こそ置いたが、可能な限り自らの母乳で育てた。子女を幼少時は手元で育てたことも、非常に画期的な出来事であった。
1926年(昭和元年)12月25日、昭和天皇の即位に伴い立后。1927年(昭和2年)、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生するも、翌1928年(昭和3年)に敗血症のため夭折。皇后は自ら死化粧をほどこし、天皇も禁を破り通夜に出席した。同年11月10日、即位の大礼が京都御所で盛大に執り行われた。1929年(昭和4年)、宮城(きゅうじょう:当時の呼称)に住いを移す。この後、なかなか男児を得られず、華族たちから「皇后さまは女腹」と言われ非難され、側室制度の復活が本格的に検討された。彼女も心労とプレッシャーに苦しむが、この案は昭和天皇が自ら拒否した。1933年(昭和8年)12月23日、継宮明仁親王が誕生。待望の皇子誕生とあり、日本全体から盛大に祝賀を受ける。継宮明仁親王を抱く皇后
一方この頃より、皇女は学習院前期(小学校)入学とともに天皇・皇后の手元を離れ呉竹寮で養育される。これは天皇の元では養育係が仕え辛く、その結果わがままに育ったと言う批判に加え、将来的に降嫁することに備えるためである。また、天皇家の神格化が推進され、明仁親王に至っては1937年(昭和12年)より東宮仮御所にて養育された。土日以外は親子とは言え、会うことはできなくなった。皇后は親王のために好物の豆腐料理を手ずから用意していたが、親王が皇后の手料理を口にすることはなかった。
第二次世界大戦中は昭和天皇とともに東京に留まり、心労の多かった夫を支えたといわれる。またこのころには、「皇后は天皇の仕人」とされたため天皇の車に同乗できなくなったともいう。戦中の食糧難の折には、天皇と夕食をともにする際、二人で相談して、かならず料理の一皿か二皿を残し、侍従や女官に下げたという。戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で野菜を作り養鶏も行った。敗戦後は引き揚げ者のための布団や着物作りを行なった。
皇室の在り方が一変して後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。1947年(昭和22年)の日本赤十字社名誉総裁就任をはじめとして、1952年(昭和27年)以降の全国戦没者追悼式、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開会式、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会式、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの出席はその例である。靖国神社への天皇親拝にも度々同行している。