紀元前206年、斉の王族・田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに封建に不満を抱く諸侯が続々と反乱を起こした。義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。これ以降の楚と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。
このときの諸侯に向けた檄文は以下のものである。
「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親為發喪,諸侯皆縞素.悉發關内兵,收三河士,南浮江漢以下,願從諸侯王?楚之殺義帝者.」
項羽は討伐軍を率いて各地に転戦する。項羽は戦闘には圧倒的に強く、項羽が行けばすぐに反乱は収まるものの、間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその鎮圧に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するといういたちごっこを繰り返した。また項羽が降伏を許さず、反乱を起こした国の兵士は全員生き埋めにして殺し、住民も情け容赦なく殺すため、反乱軍は兵民一丸となって必死に抵抗し、戦闘は泥沼化していった。
特に斉は70余りの城があり、項羽は長らく手を煩わされることになる。さらに、九江王に封じた英布に幾度も救援要請を行ったが、病と称して拒否されるなど、味方と考えていた者にも裏切られている。項羽は戦術には非常に優れていたが、戦略・政略・人望などに乏しく、直情直行型であったため人の恨みを買いやすかったといわれる。
三秦(関中)を平定した劉邦は魏・趙などと連合して50万を超える大軍を率いて楚の彭城を占領するが、これは寄せ集めの集団であり、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を一蹴する(彭城の戦い)。劉邦は敗走し、父や妻の呂雉は項羽の捕虜となった。その後、項羽は?陽(けいよう、河南省?陽市)一帯に劉邦を追い込んだが(?陽の戦い)、劉邦配下の韓信による魏・趙・燕・斉諸国遠征や、項羽に反感を抱く彭越、離反した英布などの、諸侯による後方撹乱行動に悩まされる。
このため劉邦をしばしば破り何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなって追及の手を緩めると、今度は関中の蕭何の補給で盛り返した劉邦が再度項羽と対峙する、という繰り返しとなった。
その間隙を狙って行われた陳平による内部分裂工作により、知恵袋であり亜父(父に亜ぐ)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離昧・龍且等の将軍を疑うようになる。その後、范増は病死し、韓信に攻められていた斉の救援に龍且率いる20万の軍勢を差し向けるものの、これは韓信の水計により壊滅し、大打撃を受ける。更に漢から斉に至る楚包囲網が完成し、ここにきて劉邦・韓信の力が楚を上回るようになっていった。
紀元前203年、項羽は劉太公を返還することで劉邦と一旦和睦し故郷へ帰ろうとしていた。しかしこの時漢軍が和平の約束を破り項羽の後背を襲った。長い戦闘で疲弊の極みにあった楚軍は敗走し、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に項羽軍10万は垓下に追い詰められた(垓下の戦い)。この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか?是れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。ここから四面楚歌の言葉が生まれた。
その夜、項羽が愛人虞美人に送った詩が垓下の歌である。
「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず,騅、逝かず。騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や,若を奈何んせん!」
項羽は手勢八百騎を率いて鬼神の如き強さを示し、漢軍の包囲網を突破して烏江(うこう、今日の安徽省巣湖市和県の烏江鎮)と言うところまでやってきた。ここの渡し守に、「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。願わくは大王、早く渡ってください。今は私一人が船を出し、漢の軍は至っても渡ることは出来ないでしょう」
と言われたが、項羽は「天が我を滅ぼすのに何故渡ろうか?私が江東の子弟八千人を率いてここから西へ出発し、今一人として帰る者が居ない、たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしようとも、私に何の面目があろう?たとえ彼らがそれを言わなくとも、どうして私一人が心に恥を感じずにいられようか」
と断った。 項羽は、追っ手の中に旧知の呂馬童がいるのを見つけると、「漢は私の頭に金を千と邑を万を懸けていると聞く、おまえにその恩賞をやろう」
と、言って自らの首を刎ねて死んだ。
劉邦は項羽を殺した者に対して領土をかけていたので、項羽が死んだ時、王翦が頭をとり、その他の部分の死体に向かって兵士が群がり、死体を取り合い、殺し合う者が数十人にもなった。故に死体は五つに分かれた。劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して渡した。また劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、魯公の礼を以て穀城に葬った。なお、項羽の死後、項伯(射陽侯)をはじめとして項一族はいずれも劉邦によって列侯に封じられ、劉姓を賜っている。
項羽は劉邦と対照的な性格とされ、それを示すエピソードとして項羽と劉邦がそれぞれ始皇帝の行幸に会った時の発言が良く取り上げられる。項羽は始皇帝の行列を見て「あいつに取って代わってやる」(彼可取而代也.)と言ったが、劉邦は「ああ、立派な男とは此の様な者であるべきだ!」(嗟乎,大丈夫當如此也!)と言ったと伝えられる。
このように項羽と劉邦は様々な点で対照的な面を見せたが、劉邦が項羽に対して対照的であろうとした節もある。項羽は自らも言うように戦場では連戦連勝で文句の付け所が無かったが、戦闘以外の場所では捕虜を虐殺したりするなどの悪行が目立った。有名な新安での秦兵20万の虐殺は項羽にとっては決して特別な行為ではなく、それ以外にも城を落とすたびに住民を坑した事が幾度もあった。項羽に対して秦は激しく抵抗し、その間、秦軍を降伏させて進軍を早めた劉邦が先に咸陽一番乗りを果たしている。また、こうした苛烈さは、秦滅亡後に起きた斉の離反を鎮圧できずに劉邦に東進を許してしまう原因にもなった。
事跡から想像できる項羽の性格は、かなり子供っぽいものと言える。咸陽を落とした後、「関中は山河に四方を囲まれ、土地は肥沃、此処に都を構えて覇を唱えましょう」と進言されたが「せっかく出世したのに故郷へ凱旋しないのは、夜中に刺繍の入った着物を着て道行くのと同じことぞ。誰がそれを知ろうか」と答えたという逸話は、項羽の性格をよく表している。
項羽は喜怒哀楽が激しく、部下に対して厚く慈しむ場合もあれば、激しく詰ることも多かった。特に部下と女子との扱いが極端に違っていたこともあり、韓信を雑兵のまま重用しなかったり陳平が漢に降ることになったり、揚げ句の果てには亜父と慕っていた范増さえも疑って引退させるなど、その性格から数々の将軍・策士が項羽から離れる結果となった。また、ある時あまり敵兵が抵抗せずに城を落とせた為、兵士が弱いと怒って城兵を含む住民を皆殺しにしようとしたが、利発な子供に説得されて住民の皆殺しを取りやめたこともあった。
韓信に評価された「匹夫の勇」(取るに足らない男の勇気)、「婦人の仁」(実態の伴わない女子供のやさしさ)という項羽の性格は、天下を治めるには不適格だった。そうした自分の欠点に最後まで気づかないまま自ら命を絶った項羽を、司馬遷は史記の中で「東城で死ぬときになっても、まだ自分を責任と自覚していない。あやまりだろう。そして『天が私を滅ぼす、用兵の罪ではない』という。どうして間違いではないと言えよう。」と強く批判している。
しかし、項羽の短くも苛烈な生涯に多くの人々が魅了されてきたのも事実であり、京劇の「覇王別姫」は現在も人気の演目となっている。
史記の中で、項羽は本紀(第7巻・項羽本紀)を立てられている。これは短い時間であったが天下の主であったという司馬遷の考えからだろう。なお、この項羽本紀は史記の中でも特に名文の誉れが高く、日本の『平家物語』に於ける木曽義仲の最期を描いた場面は、項羽本紀に於ける項羽の死の描写に影響を受けているといわれている。
参考文献
『史記』 ⇒中央研究院漢籍電子文献
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更新日時:2008年7月8日(火)15:43
取得日時:2008/10/11 02:38