項羽は楚の将軍であった項燕の孫であり、項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。項羽は両親を早くに亡くしたため叔父の項梁に養われていた。
『史記』にその聡明さを示す逸話がある。ある時項梁が項羽に学問を教えようとすると項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまりません。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで兵法を項羽に教えた。項羽はほぼその意を知り、また兵法を学ぶのに境を付けること(兵法の勉強に区切りをつけること)には、首を縦に振らなかったという。
成人すると、身長が8丈(約184センチ)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。
秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると、項羽は項梁に従って会稽郡役所に乗り込み、郡守である殷通をだまし討ちした後に襲いかかってきた殷通の部下数十名をひとりで皆殺しにし、会稽の役人たちは項羽の強さに平服、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。陳勝が敗死すると項梁は范増から教えを請い旧王家の末裔を探し出してこれを「楚王」に祭り上げて大いに威勢を奮ったが、秦の章邯の奇襲によって戦死する。このとき、項梁の戦死を恨んだ項羽は、章邯が居城としていたが既に去っていた定陶城の住民を皆殺しにしている。項梁死後の楚軍の指揮について会議が行われたが、結局斉の使者に項梁の戦死を予言した宋義が楚軍を指揮することになった。
宋義は趙の張耳、陳余の救援要請を受けて趙へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまい、兵が飢えてしまった。項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを打ち破る」と言う宋義に納得できなかった項羽は彼を殺害し、実質的な楚軍の総大将となった。また、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていった、宋義の息子の宋襄も追いかけて殺害した。
そして、項羽は咸陽へ向けて北進を開始した。途中、鉅鹿を包囲していた秦の名将・章邯が率いる20万を超える大軍と決戦した。鉅鹿の落城は時間の問題と見られており、趙救援に駆けつけていた各国の軍は全く手を出せず、傍観していた。
しかし項羽は、まず秦軍の食料運搬部隊を襲い、糧道を絶って秦の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させた。次いで項羽は、川を渡った後に兵士に三日分の兵糧のみを与え、残りの物資と共に船を沈めた。三日で決着が着かねば全滅あるのみ、と決死の覚悟をさせたのである。そして項羽は自ら先頭に立つと、包囲軍の大将である王離の軍に突撃をかけた。項羽の並外れた武勇と決死の兵たちは、数では5倍強の優勢にあった秦軍を潰走させ、王離を捕縛した。更に項羽はその勢いのまま秦軍を攻め、総大将の章邯は降伏を申し出、戦いは終わった。
項羽率いる楚軍の凄まじさを目の当たりにした各国の軍は、項羽を恐れ自ら進んでその傘下に入った。こうして項羽は名実ともに反乱軍の総大将となった。この時項羽は20万以上の秦兵を捕虜として得たが、暴動の気配が見えたので新安という所でこれを全て坑(穴に埋めて殺す事)した。
項羽は関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が関中に入っていた。功績を横取りされたと感じた項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとした。劉邦は慌てて項羽の伯父項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会である。
項羽は劉邦を許した後、劉邦に降伏していた秦の最後の王である子嬰一族を殺し、咸陽を焼き払って財宝を略奪した。その後、地の利の良い咸陽を都とするように進言されたが、故郷に錦を飾るために楚の彭城(現在の徐州)を都と定めた。
楚へ帰ると自ら「西楚の覇王」と名乗り、諸侯を対象に大規模な封建を行うが、その基準となったのは功績ではなく、項羽との関係が良好か否かであった。故に、ろくに手柄を立てなかったものが優遇されたり、逆に、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が冷遇されて漢中に左遷されるなど、不公平なものとなり、諸侯の多くに大きな不満を抱かせるものとなった。
また、項梁が擁立していた楚の懐王を「義帝」と呼んで格上げしたが、遷都ということで遠隔地へ連行し、その途中で暗殺させてしまった。
紀元前206年、斉の王族・田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに封建に不満を抱く諸侯が続々と反乱を起こした。義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。これ以降の楚と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。
このときの諸侯に向けた檄文は以下のものである。
「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親為發喪,諸侯皆縞素.悉發關内兵,收三河士,南浮江漢以下,願從諸侯王?楚之殺義帝者.」
項羽は討伐軍を率いて各地に転戦する。項羽は戦闘には圧倒的に強く、項羽が行けばすぐに反乱は収まるものの、間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその鎮圧に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するといういたちごっこを繰り返した。また項羽が降伏を許さず、反乱を起こした国の兵士は全員生き埋めにして殺し、住民も情け容赦なく殺すため、反乱軍は兵民一丸となって必死に抵抗し、戦闘は泥沼化していった。
特に斉は70余りの城があり、項羽は長らく手を煩わされることになる。さらに、九江王に封じた英布に幾度も救援要請を行ったが、病と称して拒否されるなど、味方と考えていた者にも裏切られている。項羽は戦術には非常に優れていたが、戦略・政略・人望などに乏しく、直情直行型であったため人の恨みを買いやすかったといわれる。
三秦(関中)を平定した劉邦は魏・趙などと連合して50万を超える大軍を率いて楚の彭城を占領するが、これは寄せ集めの集団であり、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を一蹴する(彭城の戦い)。劉邦は敗走し、父や妻の呂雉は項羽の捕虜となった。その後、項羽は?陽(けいよう、河南省?陽市)一帯に劉邦を追い込んだが(?陽の戦い)、劉邦配下の韓信による魏・趙・燕・斉諸国遠征や、項羽に反感を抱く彭越、離反した英布などの、諸侯による後方撹乱行動に悩まされる。
このため劉邦をしばしば破り何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなって追及の手を緩めると、今度は関中の蕭何の補給で盛り返した劉邦が再度項羽と対峙する、という繰り返しとなった。
その間隙を狙って行われた陳平による内部分裂工作により、知恵袋であり亜父(父に亜ぐ)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離昧・龍且等の将軍を疑うようになる。その後、范増は病死し、韓信に攻められていた斉の救援に龍且率いる20万の軍勢を差し向けるものの、これは韓信の水計により壊滅し、大打撃を受ける。更に漢から斉に至る楚包囲網が完成し、ここにきて劉邦・韓信の力が楚を上回るようになっていった。
紀元前203年、項羽は劉太公を返還することで劉邦と一旦和睦し故郷へ帰ろうとしていた。しかしこの時漢軍が和平の約束を破り項羽の後背を襲った。長い戦闘で疲弊の極みにあった楚軍は敗走し、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に項羽軍10万は垓下に追い詰められた(垓下の戦い)。この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか?是れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。ここから四面楚歌の言葉が生まれた。
その夜、項羽が愛人虞美人に送った詩が垓下の歌である。
「力は山を抜き,気は世を蓋う。時、利あらず,騅、逝かず。騅の逝かざるを奈何にす可き。虞や、虞や,若を奈何んせん!」
項羽は手勢八百騎を率いて鬼神の如き強さを示し、漢軍の包囲網を突破して烏江(うこう、今日の安徽省巣湖市和県の烏江鎮)と言うところまでやってきた。ここの渡し守に、「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。