陳水扁
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通称

通称の阿扁であるが、「阿」は中国語で人名の前に付与し親近感を表す文字であり(日本でいえば小泉純一郎に対する「純ちゃん」のようなニュアンス)、その通称で国民との親近感を演出している。これにより台湾の各種メディアでは陳水扁政権を扁政府と称すこともある。ちなみに、学生時代から彼を知る人物は「第一名(就学時代、すべてトップの成績だったことから)」と呼ぶことがある。


生い立ち

陳水扁は1950年10月12日に台南県官田郷の小作農家の家庭に生まれた。出生直後は家族は無事に養育できるかの不安が強く、そのため出生届は1951年2月18日に初めて提出された。幼少時より学業成績が優秀であり、農漁会奨学金を得て小学校を卒業することが出来た。

1969年国立台南第一高級中学を卒業し、台湾大学商学部へと進学した。しかし法学に対し関心を有すようになったため商学部を休学し、翌年再度受験に挑戦し、台湾大学法学部に首席の成績で入学した。大学3年の1973年、成績主席で司法試験に合格し「学士律師」となった。

1975年、同じ小・中学校に通っていた呉淑珍と結婚、海商法を専攻していた陳水扁は翌年華夏海商法事務所の弁護士となり、長栄海運の常任顧問弁護士を担当した。


政界進出

1979年に発生した美麗島事件が陳の政界に進出する契機となった。美麗島事件の被告弁護団に参加した陳水扁は主犯格とされた黄信介の弁護を担当し、党外活動(反中国国民党運動)に従事するようになった。1981年台北市の市議会議員選挙に立候補し、最高得票で当選した。同時期、台湾民主化運動の先駆者鄭南榕が創刊し作家である李敖が出資する自由時代系列雑誌社の社長に就任した。当時の雑誌社のスローガンは「100%の言論自由を!」であった。

1985年、議員辞職した陳水扁は台南県長選挙に出馬するが落選した。この選挙運動中に夫人である呉淑珍は国民党の陰謀説もある自動車事故に遭遇し下半身不随となった。この事故で陳の知名度は大幅に向上、多くの民衆の支持を得る契機となった。

1986年、蓬?島雑誌事件で国民党立法委員馮滬祥から名誉毀損で告訴され懲役1年(後に8ヶ月)の判決を受けた。この事件で在野から裁判に対する非難の声が高まったが、陳は判決後控訴しないことを宣言し服役した。同年、呉淑珍が立法委員に当選し、翌年刑期満了で出獄した陳水扁は弁護士活動を再開する傍ら、呉淑珍の政策秘書として活動を再開した。

同年民主進歩党が結成されると、翌1987年に入党し中央常務委員に就任。1989年に立法委員に当選すると、民進党議員団幹事長となり、1992年には2期目を務めている。陳水扁が立法委員を務めた期間、国会での質問が評価され、また「国防組織法」を提出するなど積極的に活動し、1993年7月にはアメリカの雑誌『ニューズウィーク』で台湾国会の風雲児として紹介されている。


台北市長

1994年、初めての台北市長直接選挙が実施されると陳水扁は謝長廷を破り民進党の公認候補として台北市長選に出馬した。国民党公認候補は現職の黄大洲であったが、当時国民党から一部勢力が分裂し新党を結成し、趙少康を公認に立てていたため、国民党票が二分されたこともあり、陳水扁は市長に当選した。

台湾の住民は首都の市長となった陳水扁の政治手腕と民衆に近い政治センスに高い評価を与え、高い支持率の下、陳水扁は台北捷運の建設や下水道を初めとする治水事業などを実施し、また既得権益に打撃を与える清廉さで支持率は76%を記録した。しかし1998年の台北市長選では2期目を目指す陳水扁に対し、国民党は民衆の支持率が高い馬英九を擁し、結果として陳水扁は僅かに馬英九に及ばず落選した。


総統選出馬李登輝(右)

台北市長選落選後の1999年、陳水扁は外国歴訪のいわゆる「学習之旅」に出発し、2000年の総統選挙に照準を合わせた活動を開始する。また帰国後は台湾全ての309郷鎮を訪問し、今後の政策運営のための地盤作りを行なった。そして同年7月、民進党候補として総統選挙への立候補を正式に表明した。

陳水扁はイギリス労働党の改革をモデルとし、中間左派の「新中間路線」を政策主軸とした。この時、陳水扁は総統選当選の可能性を認識しておらず、将来の政治活動のための準備期間として認識していた。そのためメディアを通じ自叙伝『台湾之子』を出版して自らの紹介を行い、自己の政治主張と理念、台湾の未来について述べていた。

しかし、2000年の総統選挙では、国民党の総統候補争いで連戦に敗れた宋楚瑜が国民党を離党し無所属候補として総統選挙に出馬したため、国民党支持票が割れた。その結果、陳水扁は39.3%の得票率で総統に当選し、5月20日に中華民国第10代総統に就任した。これは国民党出身の李登輝から民進党への政権交代であり、半世紀に及ぶ国民党支配体制を民主的選挙によって終焉させたことを意味している。


中華民国総統として


1期目(2000年〜2004年)

陳水扁が総統に就任する以前、台湾では国民党から民進党への政権交代の必要性が叫ばれていたが、実際に政権交代すると半世紀に及ぶ国民党支配の影響力が大きく、政権運営に支障を来たした。政権発足当初は国民党籍の唐飛行政院長に指名し、超党派による「全民政府」を掲げたが、「核四問題(台湾第四原子力発電所建設問題)」で建設に反対した陳水扁と対立し唐飛が辞任。「全民政府」は崩壊し、陳水扁は代わりに民進党の張俊雄を行政院長に指名するが、今度は立法院の多数を占める国民党及び親民党(総統選挙後に宋楚瑜が結成)からの罷免決議案に対し譲歩して建設続行を表明するなど、独自色を薄める結果となった。

また、陳水扁政権後各方面から政策実行能力などで批判が発生する。特に民進党結党時のメンバーからの批判が注目された。民進党主席の地位を争い、敗北した結果離党した前主席の許信良、党宣伝部主任で報道官の陳文茜などが反陳水扁勢力の代表であり、2000年の総統選挙後に反陳水扁の言論を行うようになった。陳水扁は野党勢力を結集させた民進党政権を確立したが、政権奪取後は党内の反対派の意見を抑圧しているとの批判を受けるようになった。

2002年9月、軍公教待遇改革問題で10万人の教師がデモを行い、数ヵ月後に農民、漁民などが政府が発表した農漁会改革に反対し大規模なデモにつながり、行政院農業委員会主任委員の范振宗及び財政部長である李庸三の引責辞任に発展した。陳水扁は中央機構のメンバーを大幅に入れ替えた。国民党体制の改革を目標としたこの措置も、反対派からは政治経験が豊かな国民党系メンバーに代えて、経験に乏しい民進党系メンバーを登用したことが政局運営の真空を発生させたと批判の対象となっている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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