陳水扁が総統に就任する以前、台湾では国民党から民進党への政権交代の必要性が叫ばれていたが、実際に政権交代すると半世紀に及ぶ国民党支配の影響力が大きく、政権運営に支障を来たした。政権発足当初は国民党籍の唐飛を行政院長に指名し、超党派による「全民政府」を掲げたが、「核四問題(台湾第四原子力発電所建設問題)」で建設に反対した陳水扁と対立し唐飛が辞任。「全民政府」は崩壊し、陳水扁は代わりに民進党の張俊雄を行政院長に指名するが、今度は立法院の多数を占める国民党及び親民党(総統選挙後に宋楚瑜が結成)からの罷免決議案に対し譲歩して建設続行を表明するなど、独自色を薄める結果となった。
また、陳水扁政権後各方面から政策実行能力などで批判が発生する。特に民進党結党時のメンバーからの批判が注目された。民進党主席の地位を争い、敗北した結果離党した前主席の許信良、党宣伝部主任で報道官の陳文茜などが反陳水扁勢力の代表であり、2000年の総統選挙後に反陳水扁の言論を行うようになった。陳水扁は野党勢力を結集させた民進党政権を確立したが、政権奪取後は党内の反対派の意見を抑圧しているとの批判を受けるようになった。
2002年9月、軍公教待遇改革問題で10万人の教師がデモを行い、数ヵ月後に農民、漁民などが政府が発表した農漁会改革に反対し大規模なデモにつながり、行政院農業委員会主任委員の范振宗及び財政部長である李庸三の引責辞任に発展した。陳水扁は中央機構のメンバーを大幅に入れ替えた。国民党体制の改革を目標としたこの措置も、反対派からは政治経験が豊かな国民党系メンバーに代えて、経験に乏しい民進党系メンバーを登用したことが政局運営の真空を発生させたと批判の対象となっている。
総統選挙再選2004年の総統選挙
2004年の総統選挙では、国民党と親民党が選挙協力を行い泛藍連盟を結成したことで当初優勢と考えられていたが、台湾住民の独立意識の高まり(李登輝主催の台湾独立デモに想定を超える100万人超の参加者が集まるなど)により泛緑連盟(民進党や台湾団結連盟など)の支持率も少しずつ上がっていき、泛藍陣営と支持率を並べるようになった。
そのような情勢の中で、投票前日の3月19日、陳水扁と副総統候補の呂秀蓮が台南で民衆の応援に応えながらパレードしている最中に銃撃を受けて負傷するという暗殺未遂事件(三一九槍撃事件)が発生した。この事件は選挙結果にも大きな影響を与えたとされ、結果として得票率0.228%の僅差で陳水扁が当選した。
僅差であったため泛藍連盟は強い反発を示し、総統候補の連戦が「銃撃事件は自作自演であり、選挙は無効」と訴え、支持者は連日抗議デモを行った。これに対し司法は数ヶ月に亘る審理を行い、2004年11月4日午後4時2分に連戦の訴えを退け、陳水扁の当選有効が確定した。
銃撃事件に関してはさまざまな調査が行われた。鑑定専門家の李昌?による調査では、陳水扁の銃創が拳銃によるものであるとの鑑定結果が提出され、残された弾丸より犯人捜査が行なわれた。その後被疑者として陳義雄が特定されたが、被疑者は既に死亡しており、真相は明らかにされなかった。また、2008年1月31日に中国の新華社は、銃撃事件の独立調査委員会「台湾3・19銃撃事件真相調査特別委員会」が、同事件は陳水扁政権による自作自演であったとする最終報告を発表したと報道している。報告では物的証拠である2発分の空薬莢がそれぞれ異なる銃器のものである事、当初自殺とされていた実行犯・陳義雄が他殺体であった事などを証拠として挙げている。
2005年8月、高雄捷運における陳哲男のスキャンダルが表面化する。前総統府秘書長陳哲男が業者の招待を受けて海外旅行したというものであり、清廉さを謳った陳水扁政権にとって初めての打撃となった。立法委員の邱毅によるスキャンダル追究が続き、台湾メディアで長期に亘る焦点とされた。
続いて2006年5月25日、陳水扁の娘婿である趙建銘のスキャンダルが表面化する。台湾土地開発公司の不正取引に関する内容であり、台湾地院は証拠隠滅の恐れがあるとし身柄拘束の上、接見禁止を決定した。また呉淑珍夫人に対しても太平洋崇光百貨(そごう)の商品券及び株券供与の疑惑も浮上し陳水扁の政局運営に重大な被害を与えた。これを受けて5月31日に陳水扁は「三つの決定(自清、革新、権力移譲)」と「一つの決心(有言実行、初志貫徹)」を発表、職権を除き与党の運営や選挙活動から手を引くと宣言した。
さらに同年11月3日、呉淑珍夫人が検察当局から総統府機密費1480万台湾ドルを私的流用していたとして、汚職と文書偽造の罪で起訴された。起訴によって陳水扁の退陣を求める声が野党や中間層だけでなく与党民進党内部からも噴出した。民進党の友好政党だった台湾団結連盟も総統罷免案が提出された場合賛成する意向を表明し、陳水扁は窮地に追い込まれた。こうした中で陳水扁は11月5日に記者会見を開き、機密費の私的流用疑惑を否定した上で、裁判の一審で呉淑珍夫人に有罪判決が出た場合総統を辞任する意向を表明したが、与野党・世論の不信を払拭するまでには至らなかった。
陳水扁政権の二期目では、台湾正名政策を加速度的に進め、公的機関などで使用されている「中国(China)」「中華」という呼称を「台湾(Taiwan)」へ置き換えるようになった。2007年2月12日、台湾の郵便事業を行う「中華郵政」の名称を「台湾郵政」に変更した(しかし馬英九政権になった2008年8月に「中華郵政」に戻すことが決定された)。同時に「中国造船」は「台湾国際造船」、「中国石油」は「台湾中油」と改称された。
また「脱蒋介石化」も推進された。2006年9月6日に、蒋介石の名前である「中正」(介石は字)を冠した「中正国際空港」の名称を「台湾桃園国際空港」に変更した。さらに、2007年5月19日に「中正紀念堂」を「台湾民主紀念館」に改めたが、こちらは立法院に否決され、6月7日に元の名称にもどった。
前述のスキャンダルの影響もあり、陳水扁の支持率は低迷した。2008年1月12日の第7回立法院選挙では民進党主席として挑んだが、定数113議席のうち27議席しか得られず、81議席を得た国民党の大幅なリードを受けて「党創設以来、最大の惨敗」と述べ、民主進歩党の主席を引責辞任する。
陳水扁は台湾独立の傾向が強い人物であるが、一期目の就任演説では「四つのノー、一つのない」の原則を打ち出し、任期中の台湾独立に繋がる国号変更などは行なわないことを明言していた。しかし、2006年春節の演説では国家統一綱領と国家統一委員会の廃止の可能性及び国際連合に「台湾」名義での加盟申請に言及した。