アルプススタンド内部は簡易室内練習場となっており、プロ野球では1999年からここにあるブルペンを使用している。投手交代時は、リリーフ投手がリリーフカーに乗り、アルプススタンドと外野スタンドの隙間からマウンドに向かう。室内練習場になる前は、一塁側は体育館、三塁側は25mの温水プールであった。「三塁側の室内練習場は天井が一塁側よりやや低く、床も高くなっている」「三塁側室内練習場の外にはマンホールが多数設けられている」など、元がプールであったことを彷彿とさせる部分が今も確認できる。
高校野球では、簡易室内練習場を次の試合のチームのウォーミングアップ場として使用するため、ファウルゾーンに仮設ブルペンを設置している。投手板とホームペースは1組のみとなっている。なお2008年の改修以前はファウルゾーンにマウンドが常設されており、投手板とホームベースが2組設置されていた。ラッキーゾーン撤去後の数年間(1992年?1998年)は、プロ野球でもこちらのブルペンを使用していた。
1991年以前はラッキーゾーンにブルペンがあり、リリーフカーもあった。リリーフカーはラッキーゾーン撤去時に一旦廃止されたが1999年に復活した。
建築当初はグラウンドは三角形で、ポール際のコーナーが丸みを帯びるという形状であったため、中堅120m、両翼110mに対し左右中間が128mもあるという設計で、1934年の日米野球に出場したベーブ・ルースをして「この球場ではホームランは打てない」と驚かせた。その後スタンドの増築工事に伴ってフィールドは現在の扇形となり狭くなったが、それでもなお日本の野球場としては広大であり、小柄で非力な当時の日本人選手の体型とボールの品質の低さもあって、本塁打が極端に出にくい仕様であった。これがラッキーゾーン設置のきっかけとなった。
現在では中堅120m、左右中間119m、両翼96mという数値が公表されている。東洋一とも言われる左右中間の深さを生み出す外野フェンスのゆるやかな曲線は、他の球場には見られない独自の形状である。両翼はアルプススタンドが前方に張り出しているために数値としては小さいが、その部分はわずかであり、ゆるやかな外野フェンスがポールのそばで急に角度を増すような形状である。このため実質的には両翼も充分な広さを持っている。
内野グラウンドは独特の黒土である。鹿児島、鳥取、大分など日本国内の黒土と中国福建省の白砂をブレンドしている。季節の雨量や太陽光量などを考慮し、春は白砂を多く(黒土5.5:白砂4.5)、夏は黒土を多く入れる(黒土6:白砂4)などしてブレンド具合を変えている。内野で激しい動きを見せるボールの行方を、球場観戦者にも見えやすくするための配慮である。 高校野球では敗戦するとこの土を持ち帰ることで有名。しかし、戦後しばらくの沖縄県の球児は土を持って帰っても検疫の観点上、海上で投棄するなどの処分を求められ、沖縄県に持ち帰ることは出来なかった。
外野グラウンドは、日本のプロ野球の本拠地としては稀少となった天然芝である。開場当初は外野も土のグラウンドであったが、1928年12月から1929年2月にかけて張り付けられた。
1982年からオーバーシードといわれる芝の二毛作方式を採用している。夏芝「ティフトン」と冬芝「ペレニアル・ライグラス」を用いることによって、一年中緑の芝生でプレーできるようになった。夏芝から冬芝への切り替えが9月下旬から10月上旬、冬芝から夏芝への切り替えが4月下旬から5月上旬である。
通常、球場のフェンス際は芝の育成が難しいためにウォーニングゾーンも兼ねて土となっているが、甲子園ではフェンス際まで芝が張られておりウォーニングゾーンは白線を引くことにより設けている。
ただ、内野のバックネットやベンチ周辺の芝は人工芝となっている。
マウンドピッチャーマウンドのプレート後部蛇口を使用して内野グランドの水撒き作業
ピッチャーマウンドのプレート後部には、放水用の蛇口がある。高校野球の試合前に、7?8人の整備員が一列に並んで内野全体に大型のホースで水を撒いている姿がよくテレビで放映される。この水は井戸水で、海から近いために若干の塩分を含んでおり飲用には適さない(夏の高校野球名物「かち割り」に使われる水は六甲山系の天然水を用いている)。かつて、近畿で真夏に異常渇水に見舞われた時、井戸水を使用していることを知らない人たちが「水の使いすぎ」と問題視したこともあった。
外壁を覆う蔦は1924年12月に植栽された。正面の7号門と8号門の周りには日当たりの悪いところでも生育しやすいウコギ科の蔦を、その他の部分は冬に葉を落とすブドウ科の蔦を採用し、阪神園芸の手で管理されている。かつては約430株ほどが植えられ、葉の総面積はおよそ畳8000畳分あると言われた。 リニューアル工事のため今は蔦はない。その代わりに、蔦をイメージした緑のパネルで覆われている。蔦は、2000年(平成12年)に高校野球20世紀メモリアル事業の一環として全国の高校野球連盟加盟校4170校に配布され、現在も育てられている。そのうち生育状態の良い苗が233校から集められ、2008年6月14日、「蔦の里帰り」として甲子園に植えられ始めた。約10年がかりで緑の甲子園が戻る予定。
大正年間に始まった全国中等学校優勝野球大会の人気は高まり、豊中グランド、鳴尾球場でも大勢の観客を収容しきれなかった。鳴尾では試合中に観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断するという事態にまで発展し、本格的な野球場建設に乗り出す必要が生じた。
1924年7月31日 - 西宮市の武庫川の支流である枝川、申(さる)川を廃川とし、その川沿いに埋め立てられた場所に完成。国内の球場では参考に成る物がなく、アメリカ合衆国ニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツの本拠地・ポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われている。完成するまでは紅洲(べにす)遊園地と名づけられていたが、この年の正月に阪神電車関係者が西宮えびす神社に参拝した時に十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)が60年に1度来ると言う縁起の良い年である事から後に阪神電車甲子園大運動場(はんしんでんしゃ こうしえんだいうんどうじょう)と命名された。当初は陸上競技場としても利用される事を念頭に設計され、また内野席全体(現在のアルプススタンドを除く)に鉄傘が設置された。