2005年11月には基本構想として正式発表されている。改修に関する主な構想は下記の通り(詳細は後述の外部リンクを参照のこと)。
2007年10月着工、2010年3月竣工。シーズンオフを中心に3期にわけて工事を行い、プロ野球・高校野球はともに開催予定とする。
内野・外野ともに天然芝の形態、黒土、オープンエアー(グラウンドに屋根をかけない)。
甲子園のシンボルとされている蔦を改修工事前に一旦伐採(2006年度と2007年度のシーズンオフ2年間に分けて行う)し、工事終了後に再植樹。
2007年シーズンオフに銀傘を撤去し、2008年シーズンオフに新しい銀傘に付け替える。
バリアフリー対策により、収容人員を4万7,000人に縮小する。しかし、収容人数を減らすことにより今以上に阪神戦のチケットの競争率が高くなり、球場へ見に行けなくなるファンが今よりも増えてしまう可能性があるため、改修するのなら増席をするべきだという意見もある。
なお、この改修により2007年〜2009年のシーズンは阪神がリーグ優勝・2位・セ・リーグクライマックスシリーズ優勝の場合でもポストシーズンゲーム(クライマックスシリーズ)と日本シリーズを甲子園球場で行わないこと(代替開催先は京セラドーム大阪または神戸市のスカイマークスタジアムを使う予定)が2005年11月の実行委員会で了承された(試合ではないが、毎年甲子園で行われた「ファン感謝デー」は2007年はインテックス大阪に会場を移し「ファン感謝の集い」として行った。平年行われていたソフトボールや軟式ボールを使ったエキシビジョンマッチなどは会場の都合で行えない)。また、ドーム化に関しては高校野球界から「青空の下でプレー出来なくなり、高校野球に相応しくない」との反対論が続出していた可能性が高いとされる。
上記基本構想を若干変更し、銀傘設置工事を集中化(2008年度は旧来の銀傘を維持し、同年10月から2009年春の工事で撤去・付け替える)させることにより工事期間中に銀傘を設置した状況が維持されること、内野観客席は2008年シーズンからリニューアルされたものが使用されること、外周や売店をのぞいては2009年3月までに完成すること(2009年10月以降の工事で行うのが外周・売店のみの工事であり、おそらくポストシーズンゲーム(クライマックスシリーズ)や日本シリーズに支障をきたすことにはならない)が2006年7月に公表された。
リニューアル工事と平行して球場内の飲食店も一新されることとなり、2008年1月29日、阪神電鉄本社は出店する飲食店の企業を公表した。その中には、あのケンタッキーフライドチキンの名前もあり、カーネル像も設置されることとなった。ケンタッキー側はカーネル像にユニフォームを着せたいと望んでおり、球団に使用許可を求めている。また従来からある「甲子園カレー」などを扱っていた飲食店も存続する。
3月11日、大林組より引渡しを受け工事完了となった。後に無観客で行われた練習試合において選手達からグラウンドとダッグアウトとの段差が高すぎる(90cm)、後列の椅子と天井の間が無さすぎるなどの指摘を受け、椅子を前にずらすなどダッグアウト内の手直しを行った。3月22日、第80回選抜高等学校野球大会で内野エリアのリニューアルオープンをむかえた。
また、バックスクリーン中央上部にプロ野球開催時に限り時計カウンターが仮設された。これは2008年から試合の攻撃間インターバルを出来るだけ2分15秒(投手交代時は2分45秒)以内に収めて試合時間短縮をしようという球界の奨励に基づいて義務付けられた時刻表示のため。
5月には第2期改修の変更概要が発表された。アルプススタンドもファウルグラウンドへ拡張する(それに伴い両翼の距離が変更される可能性もあるが詳細は不明)ことや、アルプス・外野エリアの観客用施設面積が増え、場内サービスを内野エリア並に引き上げることなどが発表された。また完成後の外観想像図も更新された。おおきな変更点はないが、照明塔のデザインがキャンドルスティック型からトラス構造のものに変わっている。
歴史3代目スコアボードの全景(2007年第89回全国高等学校野球選手権大会)スコアボードの右半分(2006年第88回全国高等学校野球選手権大会の決勝再試合)
開設当時の甲子園のスコアボードは得点掲示のみをする仮設の板であった。これは1924年の夏の高校野球の開催に間に合わせるために球場を建設したため、常設のものが間に合わなかったためである。1925年に選手名も表示するスコアボードが正式に開設された。この当時から球場独特の明朝体の選手・チーム名表記がなされていた。
しかし、当時のスコアボードは最大で十六回までしか書き記すことが出来なかった。1926年の夏の大会・静岡中学 - 前橋中学の試合は延長十九回まで続き、常設のスコアボードにやぐらで仮設のスコアボードを急ごしらえして凌いだ。その後1933年準決勝の明石中学 - 中京商業の試合は二度と破ることができない延長25回(現在規定では延長15回までのため)まで0-0の同点という試合(試合は中京商業がサヨナラ勝ち)となり、その仮設のやぐらに0のパネルが並び続けたため見辛いということから、1934年にスコアボードを改修することになった。
2代目のスコアボードは1934年から1983年までの延べ半世紀にわたって使用された。スコアボード左側に選手名表記、真ん中に時計とボールカウンター(ただしストライクも赤色ランプ)、審判団、右にスコア(当初は上段に九回まで、延長十回以後は下段に記した)を表記するものだった。高さは現在の3代目スコアボードの半分程度(スコア表示部分と三菱電機の広告がある緑色の部分の境目あたり)であった。
当初は阪神電鉄の車両部のスタッフが遠隔操作でスコアやボールカウンターを操作していたが、ナイター設備が1956年に完成すると、それをカバーする目的で使われていたガラスが反射して見辛いことから、ガラスを外して手動に改修。1958年にはスコア表示を十二回までとし、下段はその日の試合結果(プロ野球の場合は他球場の経過)を表すものに変更された。
2代目の選手名、(高校野球の)チーム名は、全て球場係員の手による、白ペンキを用いた手書きであった。選手名は全て明朝体に近い独特の書体で書かれていた(明朝体よりもやや横幅が広いので字全体がひしゃげた感じになる)。