この地震が大惨事となった最大の理由は、老朽木造瓦屋根の住宅が多かったことであるが、その他の理由の一つに、近畿地方では他の地方に比べて地震の発生が少なかった事が挙げられる。地震の専門家の一部は、小さい規模の地震すら起こらないことで、エネルギー(歪み)の蓄積が起こっており、ひとたび地震が発生した場合には規模の大きなものになる危険性をはらんでいる事を指摘していた。
しかし、「近畿地方は地震が少ない。仮に起こったとしてもそんなに大きな地震ではないだろう」といった“実体験”による過信(ただし、歴史文献を紐解けば、実際には、近畿地方は、幾度も巨大地震に襲われている。「地震の年表」も参照されたい)から、「近畿地方では大きな地震は起こらない」とする誤まった認識の広まり、または、地震自体を意識することが少なく専門家の指摘を信用する人間も少なかった。
ゆえに、地震対策は震度5を想定しており、防災については地震対策よりもむしろ「阪神大水害」の教訓から水害を重視した防災計画が作成されていたとみられる。
それまでの大地震の発生する構造については、太平洋プレートやフィリピン海プレートが日本海溝や南海トラフにおいてユーラシアプレートの下に滑り込み、そのプレートの跳ね返りによって発生するもの(海溝型地震)ばかりが注目されて活断層のずれによる大地震の発生はさほど注目されていなかった。
実際に、これらのプレートの境界の近くに位置する東海地方においては、大地震(東海地震、東南海地震など)の発生する可能性が最も高い地域として防災訓練や建造物の補強など徹底した対策が取られてきた。その一方で、近畿地方では無警戒に近い状態であった。
北海道、東北地方、北陸地方などの豪雪地帯であれば、地震の多発地帯以外でも、「雪」という重量物が屋根の上に積み重なる前提に家屋が建てられるために、結果的に「地震」など揺れにも強い構造となることがいわれている。ただし、2004年の新潟県中越地震において豪雪地帯の建物が少なからず倒壊・損壊した事で、耐雪構造と耐震構造を分けて考える必要性が指摘されるようになっている。
すべてではないが、その後のビルディングも含めた物件を建築や補修する際には、阪神・淡路大震災における被害を教訓とした上に最低限度の耐震性を考慮した構造に変わっていっている。また、前述の「高架構造になっている高速道路や一般道路、鉄道などの橋脚」の構造上の脆弱さが指摘され、順次、行政主導のもとで補強工事が施工されていった。
この地震の原因である活断層は、全国に広く分布している。しかし、現在においても、大地震を正確かつ厳密に予知することは不可能であり、「活断層上の建造物の耐震性」「地盤の強弱」を前提とした補修、建築であっても、地震発生の際の被害予測は非常に難しい。
「地震に起因する火災(特にもらい火)」などは、多くの火災保険では填補除外条項とされているケースが多く、採算性の問題も含めて改善が進んでいない。そのため、この震災を機会に地震保険への注目が集まるようになった。
そういった諸問題も含めてこの「大震災」は日本の災害対策上重要な位置を占めている。
兵庫県は、以上の教訓を踏まえて神戸市中央区に人と防災未来センターを建設した。なお、新潟県中越地震による新潟県への別館建設も検討中である。また、震災の記録を残すため、津名郡北淡町(現・淡路市北部)には兵庫県南部地震の震源となった野島断層を保存する北淡震災記念公園が、神戸市中央区のメリケンパークには崩壊したメリケン波止場を保存する神戸港震災メモリアルパークが整備された。
消防・自衛隊による救助活動消火活動。消防は、人員も足らず、ほとんど手の付けようがなかった(兵庫区)。
地震発生後、消防・警察・自衛隊などの各組織は救助活動に入っている。消防庁が調整を行って全国から消防部隊が現地に送られていたが、交通渋滞に巻き込まれずに到着したものはほとんどなかった。現地消防、警察においては、自身が被害を受けていることもあり、初期における救助活動は円滑とはいえなかった。このほか、淡路島においては、消防団および、近隣住民が中心となった救助活動が行われた。
自衛隊については、地震発生数分後には行動を始めたものの、阪急伊丹駅へ近傍派遣(災害派遣)を行った第36普通科連隊を除き、神戸市中心部への災害派遣は直ちにはなされなかった。第36普通科連隊は、「近傍派遣」(自衛隊法第八十三条三項)によって出動しているが、他の部隊は知事の要請(自衛隊法第八十三条一項)の待機状態になっていた。
貝原俊民・兵庫県知事(当時)からの災害派遣要請はすぐに行われなかったが、これは各所轄の警察署単位で調べていた被害情報を、兵庫県警本部の警備部がまとめていたのに連絡を怠り、貝原知事にまで伝達されなかったことが最大の原因であった。例えば兵庫県警東灘署だけでも午前8時に「死者100名以上、行方不明者数百名」という情報を把握していたにもかかわらず、兵庫県警警備部が知事への報告を地震発生後2回しか行わず、午前10時の段階で知事に伝わっていた兵庫県全体の被害情報は「死者4名」というあまりに現実とかけ離れたものだった。(JNN報道特別番組「失われた街で?阪神大震災から1ヵ月」=1995年2月17日放送によるスクープ)。貝原知事は「被害情報が正しく伝えられていれば、即座に自衛隊派遣要請を出来ていた」と同番組の取材に対して答えている。
知事から自衛隊への情報提供は、災害派遣要請時に自衛隊法施行令第百六条によって規定されており、この中で、知事の派遣要請は警察や消防への急報と違い、日時と場所、部隊規模を指定してなされなければならないとされている。“とにかく来てくれ”では自衛隊も対応できない。
こうした状況把握の混乱から、派遣要請は、地震発生から4時間後に自衛隊との電話が偶然つながった野口一行・兵庫県消防交通安全課課長補佐(当時)の機転で行われ、知事へは事後承諾となった。これを教訓に、都道府県知事や市町村長または、警察署長などからも要請が行えるようになったことが、後に福知山線脱線事故の発生時の救出活動に大いに役立つこととなる。
また、神戸市担当の部隊が姫路市の第3特科連隊(現・第3特科隊)であり、神戸市まで距離があったことも、自衛隊の現地到着が遅れたことの原因の一つとされている。
官邸をはじめとする政府、国の機関も被害地域の惨状を把握するのにテレビ・ラジオが最大の情報源であったため、村山富市内閣総理大臣(日本社会党)の大規模派遣がなかなか指示されなかった事から対応が後手に回った。