「長崎」という地名の由来はよく分かっていないが、次のように言われている。元弘三年(1333年)、北條氏が新田義貞の軍勢に鎌倉を襲われて滅ぶと、代々伊豆国田方郡長崎村を領し、その地名を苗字として、鎌倉の執権である北條氏の執事をつとめていたことのある長崎氏の一人が九州に流れ(九州長崎氏)、長崎湾の奥を領して地侍になったと長崎甚左衛門純景はその系図で主張している。
2003年12月には、平戸市入口遺跡で10万年前の地層から旧石器が見つかったという報道もあったほどで、古くから人が居住していた可能性が考えられる。
古くは肥前国(佐賀県と壱岐・対馬を除く長崎県全域)、対馬国、壱岐国に分かれたが、肥前の国府は佐賀県の佐賀市(旧大和町)にあった。肥前のうちに含まれる五島列島は遣唐使南路の出発地として有名である。中世には松浦党などの海賊衆(水軍)が興り、対馬を含めて各地が倭寇の根拠地となった。1274年(文永の役)、1281年(弘安の役)の元寇では対馬、壱岐、鷹島に元・高麗軍が襲来したが、「神風」(大型台風)が九州を襲い元軍が退却したのはこれらの島々が破壊しつくされた後であり、これらの島々に神風の恩恵は全く無かった。
1550年にポルトガル船が平戸に来航し、宮前事件で長崎に移ったが、17世紀にはいるとオランダ東インド会社、イギリス東インド会社が相継いで平戸支店を開設している。江戸時代の長崎県は佐賀藩、島原藩(島原半島)、大村藩(彼杵地方)、平戸藩(松浦半島・平戸島・壱岐)平戸新田藩、福江藩(五島列島)、対馬府中藩(対馬)、佐賀藩家老の諫早陣屋、交代寄合の五島家の富江陣屋、天領(長崎)に分かれる。江戸幕府の鎖国方針により、ポルトガル人は長崎から追放され、1641年にオランダ商館が出島に移った。中国商船の長崎来航も認められており、長崎は鎖国下の日本では数少ない国際貿易港となった。また、対馬藩は幕府から李氏朝鮮との国交の実務を委任される傍ら朝鮮との貿易を公認され、釜山に倭館を置いてこれらの業務を行っていた。このように、今の長崎県には鎖国時にも幕府の公認で海外へ開かれていた港が二箇所存在した。ちなみに鎖国下において江戸幕府公認の国際貿易港は上記2港のみである。1637年島原の乱が起こった土地だけに江戸期を通じて隠れキリシタンが多く存在した(壱岐・対馬を除く)。なお現在でも人口に対するキリスト教信者の割合が日本の他地域と比べて多い地域[1]である。
幕末の長崎港開港によって各国商船が来航し、長崎は国際貿易港として更に発展を遂げた。佐世保は日本海軍の大規模な軍港となり、長崎では戦艦武蔵が建造されるなど造船が発達した。第二次世界大戦末期、1945年6月29日(未明)に佐世保大空襲があり、1945年8月9日午前11時2分米国空軍爆撃機B-29によって長崎市に原子爆弾が投下され、広島市とともに原爆被災地となった。
年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
総計 [単位 千人]
年齢人口
0 - 4歳 66
5 - 9 74
10 - 14 74
15 - 19 85
20 - 24 87
25 - 29 82
30 - 34 91
35 - 39 86
40 - 44 91