長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。明の時代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐の時代には食料等の搬入の面で致命的な弱点を露呈させていた長安が都に返り咲く余地は無く、名を西安(せいあん)と改められた。(現在の西安については西安の項目を参照のこと)
長安城は周辺諸民族のあこがれの的だった。碁盤の目状の道路、南北を貫く大通り、北の政庁の位置、河川の配置といった特徴は平城京、平安京にも見受けられる。嵯峨天皇は平安京の西を長安、東を洛陽と名付けたが、時代が降るに連れて右京が衰え左京が発展したため、「長安」の名が消え、代わりに「洛陽」と呼ぶようになった(「洛中洛外」「洛南」など)。ただし平安京を初めとする日本の都市には城壁がない。大陸とは違い騎馬民族の侵攻が無く、城壁は日本の都市には必要無かったためである。(但し、豊臣秀吉は京都にお土居を築いている)。
外部リンク
⇒自作中国歴史地図集?唐長安城図
⇒中国首都 - Wikipedia
参考文献
『長安の春』石田幹之助著(講談社, 1979年)(講談社学術文庫;403) ISBN 4061584030
『唐両京城坊攷:長安と洛陽』(清)徐松撰;愛宕元訳註(平凡社, 1994年)(東洋文庫;577) ISBN 4582805779
『長安の都市計画』妹尾達彦著(講談社, 2001年)(講談社選書メチエ;223) ISBN 4062582236
カテゴリ: 西安 | 中国の歴史的地名 | 秦漢 | 隋唐
更新日時:2008年7月30日(水)17:23
取得日時:2008/10/10 19:54