十勝支庁出身で武部勤、中川昭一、北村直人の保守系四人がひしめいていた旧北海道5区選出の衆議院議員であった。
中川一郎の秘書を務め、立合演説会では中川の代理で登壇するように中川から信頼を寄せられ、「中川の金庫番」とも言われた。
1983年に中川が死去すると、第37回衆議院議員総選挙で中川が生前に立候補していた中選挙区時代の北海道5区(定数5)から、自民党の公認を得られず無所属で出馬。中川の長男である昭一と骨肉の争いを演じ、激戦の末共に初当選。直後金丸信に掛け合い、自民党に追加公認された。なお、鈴木の事前の公認に反対したのは党総務局長だった小沢一郎で、鈴木はそれを知ると後々まで恨んだという。
魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社)によると、昭一が立候補していたため、読売新聞グループの渡邉に立候補を断念するよう迫られ、鈴木が断るとマスメディアに大々的に鈴木批判の記事が掲載されたという。
中選挙区時代の北海道5区は、定数5に対し、釧路市を基盤にした岡田利春(日本社会党)がいたため、日本社会党が(単独推薦を含め)最後まで3人の候補を立て続けた唯一の選挙区(3人当選する場合もあった)であり、昭一との遺恨、自ら「中川一郎先生の応援をえて最年少道議として政界デビュー」と語る武部勤の参戦(このとき武部は落選)もあって、毎回自民3候補(鈴木が当選してからは4候補)対社会党3候補の激戦が広大な選挙区(面積日本一。都道府県面積第2位の岩手県より広い)の中で繰り広げられた。
当選後当初は金丸信を、金丸の引退後は当選回数の近い衆院議員である野中広務を師と仰ぎ、「野中・鈴木ライン」で政界を叩き上げた。その叩き上げの手法の中には、大蔵省への陳情の際に北勝海を同席させたり、リクルート事件で竹下登が辞意を表明したが後継総裁選定に難航した際に、早くから宇野宗佑が後継であると断言するなど、従来の政治家の常識を超えた行動が目立っていた。
1996年の小選挙区制導入で旧5区は11区(十勝支庁)、12区(網走支庁・その後区域変更)、13区(釧路・根室支庁・現在は「7区」に区域名変更)に分けられ、11区には中川、12区には武部が張り付いた。13区は北村の地盤だったが、北村は当時の新党ブームに乗り、羽田孜・小沢一郎らと新生党結成?新進党結党参加していた。このため自由民主党候補者が不在となっていた13区に、鈴木が地盤の十勝から国替えして張り付いた。
しかし中選挙区時代から小選挙区移行後の今日でも十勝支庁は地盤として強固である。国替え後、それまで縁の薄かった釧路市に家を構えたことに関し、嫌悪を感じた釧路市民も多いと伝えられる。国替え直後選挙では、釧路市を大票田とする北海道13区(釧路支庁・根室支庁)では自民党を離れながらも酪農業を中心に保守層を押さえた北村に敗れ、重複立候補していた比例代表北海道ブロックで復活当選した。
選挙区の国替え後、基本的には十勝支庁の土建業者の支持を中心に受けつつ、補助的には自由民主党代議士が永く不在なため差別的なまでに基盤整備の遅れた道東の中心都市釧路市を含む釧根(釧路支庁・根室支庁)、特にこれまで独自の国会議員を持ったことがない根室支庁(妻の出身地)では建設業界に支持が根強い。また、ライバルの北村直人が酪農家を地盤としたのに対し、鈴木は岡田利春の基盤であった漁業関連へと食い込み、「海関連」で固い人脈を築いた。
2002年2月13日、国後島の「日本人とロシア人の友好の家」、いわゆるムネオハウスの建設をめぐる疑惑を発端として数々の疑惑が浮上。2月20日に参考人招致、3月11日に証人喚問を受けたが「記憶に無い」との答弁を多用。一切の疑惑に対して曖昧な釈明に終始したことより、社民党の辻元清美議員から「もう、ど忘れ禁止法を適用したい」「あなたはねぇ、疑惑のデパート言われてますけど疑惑の総合商社ですよ!」と批判を受けた。6月19日やまりん事件であっせん収賄容疑で逮捕、6月21日に衆議院で議員辞職勧告決議が可決された。7月20日に斡旋収賄罪で起訴。証人喚問において国後島緊急避難所兼宿泊施設工事受注において入札要件に該当する会社が渡辺建設工業だという認識は持っていないという証言が偽証として9月13日に議院証言法違反で起訴。政治資金規正法違反の罪でも起訴された。
2003年、衆議院選挙の直前に保釈(尚、2002年12月と2003年4月に保釈を申請しているが「証拠隠滅の恐れがある」として却下された)され、すぐに胃ガンの手術を受けた。出馬を推す声もあったがそれを理由に辞退。2004年の参議院選挙に無所属で出馬するも落選(得票数48万5382票)。2004年11月5日東京地方裁判所での第1審で懲役2年、追徴金1,100万円の実刑判決が下された(鈴木は一連の事件を全て否定した上で「国策捜査」と批判し即日控訴)。2008年2月26日に東京高等裁判所においても、控訴棄却となり、即日最高裁判所に対し上告した。
2005年8月18日、松山千春とともに新党大地を結成し代表に就任。9月の第44回衆議院議員総選挙に北海道ブロックでの比例1位候補として立候補して当選、衆議院議員復帰を果たした(2004年参議院選挙で鈴木の獲得票数から勘定すれば新党大地は北海道比例ブロックでの1議席の確保が見込まれていた。2005年衆院選は自民党による刺客候補が世間を騒がせた選挙であったため、中川昭一の北海道第11区や武部勤の北海道第12区へ鈴木宗男が逆に自民党大物議員の選挙区で刺客として立候補することも浮上したが、新党大地が公職選挙法上の政党でなかったために鈴木は重複立候補ができず、鈴木ができるだけ安全に当選して議員となるために鈴木を比例名簿1位に搭載させて、比例単独候補となった(新党大地ではなく、自民系反郵政民営化政党であり北海道比例ブロックに候補者を一人も擁立していなかった国民新党であれば政党要件があるため、北海道比例ブロックでの比例1位と選挙区での重複立候補が可能ではあった)。