鈴木善幸
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前半生

岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。水産学校を経て水産講習所に入学、学生時代の弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったこともあり、就職時には思想傾向を理由に不採用になったこともある。大日本水産会、全国漁業組合連合会、県漁業組合連合会などに勤務したのち、1947年(昭和22年)に日本社会党から衆議院議員選挙に出馬、初当選。後、社会革新党を経て吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。池田勇人宏池会に所属し長く党務を中心に活動した後、第1次池田内閣では郵政大臣に就任。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。


大平の急死

1980年(昭和55年)5月、自民党が過半数を占める衆議院で、社会党提出の大平正芳内閣不信任案採決に、三木派福田派などの反主流派自民党議員が多数欠席し、不信任案が可決された。大平首相はこれに対抗して衆議院を解散ハプニング解散)することとし、参議院選挙の日程を繰り上げて、初の衆参同日選挙を行うことにした。だが、大平は選挙戦突入の初日に心臓発作で倒れ、選挙戦中盤に死亡する展開となった。選挙結果は、首相の憤死への同情から、衆参両院における自民の圧勝となる。この結果は予想されたものではなく、解散時における世論調査では、大平内閣の支持率21%に対して不支持率は41%だった。国民は自民の内紛に嫌気がさして、野党支持が自民党支持を上回っていた。このような状況での内閣不信任案可決と解散とに財界は困惑し、経団連土光敏夫会長は、記者会見で「1番悪いケースになった。……不満を禁じえない。この際、自民党がもっと結束してことに当たってほしかった」と述べた。自民党は、この同日選挙に向かって、財界に50億円の政治資金拠出を要請、財界側は自民党の分裂回避を条件として応ずることとなった。これを契機に、反主流派の新党論も消滅し、同時に主流派の側も、不信任案審議時の欠席者の責任を不問にした。

大平が死去したとき、伊東正義官房長官が内閣法の規定により首相臨時代理を、西村英一自民党副総裁が総裁臨時代行を務めたが、選挙は主流派を代表する形で、総務会長の鈴木善幸が財界との交渉も含め取り仕切った。鈴木は総理を目指すのではなく、大平を総理にすることに努力してきた人間であった。選挙が圧勝で終わったとき、不信任の可決から始まった騒動だけに反主流派に首相候補を立てる元気はなかった。一時、伊東官房長官や西村副総裁を次期首相とする構想も出たが、財界交渉を行っていた鈴木が大平政権を継承する形で総理・総裁の座に就任することになった。また、初めて社会党に在籍経験がある自民党総裁が誕生したことになった。

鈴木は、大平の初盆の日に、自民党両院議員総会で総裁に選出されたとき、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」と、異例の挨拶を行った。なお、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている[1]

首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた。


鈴木政権1982年フランスイヴリーヌ県ヴェルサイユにて第8回先進国首脳会議(ヴェルサイユサミット)に出席

自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、鈴木は「和の政治」をスローガンに掲げた。与党自民党は参議院全国区選挙を拘束名簿式比例代表制に改めた。また、財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため「増税なき財政再建」を掲げ第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ、行政管理庁長官に中曾根康弘を充てるなど、後の中曾根行革への道筋をつけることになった。また現職の内閣総理大臣として初めて北方領土と、復帰後の沖縄を視察した。

その一方で、元々社会党から政界入りしたこともあって外交面ではハト派色が強く、1981年5月のレーガン大統領との会談後記者会見で日米安保条約軍事同盟ではないと発言して、外務大臣である伊東正義の辞任に発展した。政策思想的な要因のみならず、首相就任以来、度々発言を修正することがあるなど発言に隙があることもこの問題の一因である。これらの経緯により対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていた。ところが1982年10月に至って突然総裁選不出馬を表明。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことなどが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない。後継の中曽根内閣では日米軍事同盟路線を強調し対米関係修復に努める一方で鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承された。


その後

内閣退陣後も当面宏池会の会長を務めたが、中曽根おろしを目論んだ二階堂擁立構想が頓挫し、影響力が低下。会長職を宮澤喜一に禅譲する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki