鈴木は、大平の初盆の日に、自民党両院議員総会で総裁に選出されたとき、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」と、異例の挨拶を行った。なお、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている[1]。
首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた。
鈴木政権1982年、フランスイヴリーヌ県ヴェルサイユにて第8回先進国首脳会議(ヴェルサイユサミット)に出席
自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、鈴木は「和の政治」をスローガンに掲げた。与党自民党は参議院の全国区選挙を拘束名簿式比例代表制に改めた。また、財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため「増税なき財政再建」を掲げ第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ、行政管理庁長官に中曾根康弘を充てるなど、後の中曾根行革への道筋をつけることになった。また現職の内閣総理大臣として初めて北方領土と、復帰後の沖縄を視察した。
その一方で、元々社会党から政界入りしたこともあって外交面ではハト派色が強く、1981年5月のレーガン大統領との会談後記者会見で日米安保条約を軍事同盟ではないと発言して、外務大臣である伊東正義の辞任に発展した。政策思想的な要因のみならず、首相就任以来、度々発言を修正することがあるなど発言に隙があることもこの問題の一因である。これらの経緯により対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていた。ところが1982年10月に至って突然総裁選不出馬を表明。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことなどが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない。後継の中曽根内閣では日米軍事同盟路線を強調し対米関係修復に努める一方で鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承された。
内閣退陣後も当面宏池会の会長を務めたが、中曽根おろしを目論んだ二階堂擁立構想が頓挫し、影響力が低下。会長職を宮澤喜一に禅譲する。1990年(平成2年)、政界引退。2004年(平成16年)7月19日、肺炎のため93歳で死去。 死後、正二位 大勲位菊花大綬章。三女は麻生太郎に嫁いだ。息子は衆議院議員の鈴木俊一。
略歴
1911年 岩手県山田町に父・鈴木善五郎、母・ひさの長男として生まれる
1935年 農林省水産講習所(現・東京海洋大学)卒業、大日本水産会、全国漁業組合連合会、県漁業組合連合会などに勤務
1947年 日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選
1948年 社会党を離党、社会革新党結成に参加、秋に民主自由党(のちの自由党)に入党
1960年 池田勇人内閣の郵政大臣で初入閣
1964年 内閣官房長官就任
1965年 厚生大臣就任
1972年 自民党総務会長就任
1976年 農林大臣就任
1980年 自民党総裁・内閣総理大臣就任
1981年 放送大学学園法公布・施行 放送大学学園創立
1982年 内閣総理大臣辞任
1990年 政界引退(通算当選16回)
2000年 宏池会分裂(加藤の乱)、宮澤喜一とともに反加藤派を支持
2004年 7月19日午後9時15分死去、93歳没
栄典
平成16年7月19日:大勲位菊花大綬章
脚注^ 升味準之輔著『日本政治史4』
関連項目
ハプニング解散
鈴木善幸内閣
鈴木善幸内閣改造内閣
自由民主党総裁
二階堂擁立構想
岩手県出身の人物一覧
外部リンク
⇒「故鈴木善幸」内閣・自由民主党合同葬儀における追悼の辞
歴代内閣総理大臣
第69代
大平正芳第70代
1980年 - 1982年第71代
中曽根康弘