東條内閣・小磯内閣において外務大臣を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対、東條総理のブレーンとして自らの主張を現実にするため、昭和18年(1943年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。しかしマライ、インドネシア、インドシナ、朝鮮、台湾等はこの会議の参加自体が許されず、参加国は日本の強い影響下のある勢力に限られ、日本は参加国の意見を取り入れなかった。また日本の軍事占領下では資源や食料の搾取、強制労働が続いていた。重光の「亜細亜の独立と武力によらぬ協調」という理想は実現には至らなかった。
重光は東久邇宮内閣で外相に再任された。引き受けた大仕事は、敗戦国の全権として降伏文書に署名するという屈辱だった。昭和20年(1945年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式でにおいて梅津美治郎と共に日本政府全権として署名を行い、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。
戦後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者の弁護の準備を進めていたが、昭和21年(1946年)4月13日に来日したソ連代表検事のS・A・ゴルンスキーがジョセフ・キーナン首席検事に対して、強硬に重光をA級戦犯として起訴する様要求してきた。当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時の民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さ振りに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認さぜるを得なくなった。結局、4月29日の起訴当日に逮捕される事となり、昭和23年(1948年)11月12日に有罪判決を受けた。その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものだったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決を受けた事はGHQによるソ連を満足させる為の政治的妥協によるものだと評する声も多かった。事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。貴下の無罪は何人も疑わぬところであった」と憤りを表わし、ケンワージー中佐などは「判決は絶対に覆るはずだ」とまで述べていたという。4年7ヵ月の服役の後、昭和25年(1950年)11月には仮釈放されている。
重光は公職追放解除後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。改進党総裁であった昭和27年(1952年)に野党首班として総理大臣の座を吉田茂と争い2位。続く昭和28年(1953年)の総選挙後、少数与党となった吉田の日本自由党からの連立の呼びかけを拒否する。野党の首班候補として重光の総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず決選投票で敗北。吉田との会談により閣外協力を受け入れた。
昭和29年(1954年)12月以降、第1〜3次鳩山一郎内閣では外務大臣を務める。昭和30年(1955年)4月、インドネシアでアジア・アフリカの29カ国が集まるアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、アジア・アフリカの国々が第三勢力として協力し合う方針を打ち出した。日本はこの会議でアジアの一員として国連加盟の支持を得た。9月1日、重光は国連本部を訪れレセプションを開催し、経済復興した日本が国際社会に貢献できると国連加盟をアピールしたが12月、国連安全保障理事会ではソ連の反対により否決。国連加盟を果たすため鳩山内閣は国交がなかったソ連との関係改善を目指し昭和31年(1956年)7月、重光はモスクワで日ソ国交回復交渉に入るが、北方領土問題が難航し交渉を妥結できなかった。このことから重光は、歯舞・色丹の2島のみを返還するというソ連案を受け入れるしかない、という旨の電文を東京に打電した。しかし、鳩山首相は重光の提案を拒否し、重光をスエズ会議に送ったうえで、自ら交渉に望んだ。そして、領土問題を棚上げすることで10月19日、ソ連との国交を回復し日ソ共同宣言が行われ、国連加盟に反対しないとの内諾を得る。国連総会で加盟受諾演説をおこなう重光
同年12月18日、国連総会は全会一致で日本の国連加盟を承認した。重光は日本全権として加盟受諾演説を行い、「日本は東西の架け橋になりうる」という名句を残した。その直後に国連本部前庭に自らの手で日章旗を高々と掲げた重光は、その時の心境を「霧は晴れ 国連の塔は輝きて 高くかかげし 日の丸の旗 」と詠んでいる。帰国前の12月23日、日本では石橋内閣が成立したため外務大臣の職を離れる。日本への帰途、同行した加瀬俊一に対して笑顔で「もう思い残すことはない」と語った。
それから一月後の昭和32年(1957年)1月26日、重光は狭心症の発作により神奈川県湯河原の別荘で急逝した。69歳だった。
重光を知る者は「欠点がないことが欠点だ」と彼を評することが多かった。重光は駐華公使のとき第一次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失ったが、義足での歩行は大変な困難を伴うものだったのにも拘らず、そのことは全く気にしていなかった。後年ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦する米国水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという。
その後、公務に復帰した際に時の外務大臣・広田弘毅は重光の体を気遣って当時外交懸案の少なかった駐ソ大使に任命して本来駐ソ大使に予定していた東郷茂徳を駐独大使とした。だが、張鼓峰事件の処理などを巡って重光とソ連外務省が対立、さらにはソ連のマスコミによって「無能な外交官」と批判された(松岡洋右がこの話を聞いて重光に同情し、後に松岡外務大臣のもとで行われた主要国大使の一斉解任の際にも重光駐英大使だけは対象から外されたという)。