重光葵
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外交官として

各国において日本国公使として勤務していたが、昭和5年(1930年)には駐華公使となる。昭和6年(1931年)9月、日本陸軍の一部が突如中国東北部を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となる。これに対し重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著「昭和の動乱」より)と怒り、外交による協調路線によって収めようと奔走。昭和7年(1932年)1月、上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の元、中国との停戦交渉を行う。何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮の独立運動家・尹奉吉爆弾テロに遭い重傷を負う。重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」(重光口述筆記「隻脚公使」より)と語り、事件の7日後の5月5日、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす(このとき重光の隣でやはり遭難し片目を失った海軍大将の野村吉三郎ものちに外務大臣、そして駐米大使となり、日米交渉の最前線に立っている)。

上海事変を中国が国際連盟に提訴したことを引金に、昭和8年(1933年)2月、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする決議案が賛成は42ヵ国対反対1ヵ国(日本)で採択された。これを不服とする日本は国際連盟から脱退を宣言し国際社会から孤立していく。このころ重光は「欧米の国々は民主主義民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。

その後、駐ソ公使張鼓峰事件乾岔子島事件に関与)・駐英大使を歴任。特に日英関係が険悪化するなかで関係改善に努力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだったといわれた。だが、欧州戦争において重光は「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにも関わらず日本政府は聞き入れず、松岡洋右外務大臣が日独伊三国同盟を締結し、結果としてアメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。

昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が始まる。日本は東南アジアの欧米の植民地を占領。外交官として重光はこれに対し「日本は卑しくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒っている。


開戦時の外相、敗戦国の全権降伏文書調印
1945年9月2日東京湾上に停泊の米国戦艦ミズーリ号甲板にて。中央で署名するのが重光全権、その左(写真右端)は加瀬俊一、重光の前方で署名を見守るのはリチャード・サザーランド中将。

東條内閣小磯内閣において外務大臣を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対、東條総理のブレーンとして自らの主張を現実にするため、昭和18年(1943年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。しかしマライ、インドネシア、インドシナ、朝鮮、台湾等はこの会議の参加自体が許されず、参加国は日本の強い影響下のある勢力に限られ、日本は参加国の意見を取り入れなかった。また日本の軍事占領下では資源や食料の搾取、強制労働が続いていた。重光の「亜細亜の独立と武力によらぬ協調」という理想は実現には至らなかった。

重光は東久邇宮内閣で外相に再任された。引き受けた大仕事は、敗戦国の全権として降伏文書に署名するという屈辱だった。昭和20年(1945年9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式でにおいて梅津美治郎と共に日本政府全権として署名を行い、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。

戦後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者の弁護の準備を進めていたが、昭和21年(1946年4月13日に来日したソ連代表検事のS・A・ゴルンスキーがジョセフ・キーナン首席検事に対して、強硬に重光をA級戦犯として起訴する様要求してきた。当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時の民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さ振りに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認さぜるを得なくなった。結局、4月29日の起訴当日に逮捕される事となり、昭和23年(1948年11月12日に有罪判決を受けた。その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものだったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決を受けた事はGHQによるソ連を満足させる為の政治的妥協によるものだと評する声も多かった。事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。貴下の無罪は何人も疑わぬところであった」と憤りを表わし、ケンワージー中佐などは「判決は絶対に覆るはずだ」とまで述べていたという。4年7ヵ月の服役の後、昭和25年(1950年)11月には仮釈放されている。


戦後の活躍

重光は公職追放解除後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。改進党総裁であった昭和27年(1952年)に野党首班として総理大臣の座を吉田茂と争い2位。続く昭和28年(1953年)の総選挙後、少数与党となった吉田の日本自由党からの連立の呼びかけを拒否する。野党の首班候補として重光の総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず決選投票で敗北。吉田との会談により閣外協力を受け入れた。

昭和29年(1954年)12月以降、第1?3次鳩山一郎内閣では外務大臣を務める。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki