江戸期の里山は国家(将軍家や藩)が所有し民間の利用を認めないもの(御建山などと呼ばれる)、土地は民間所有(入会地形態)であっても木材は国家所有で伐採には国家の許可が必要なもの(御留山や御用木と呼ばれる)、土地も木材も民間所有(入会地形態)で木材伐採にも官許の不要なもの、個人所有のもの、宗教施設所有で当該宗教施設の為に用いられるものなど多様であった。このうち御留山を民間の材木商や村が伐採する場合には藩に現銀による対価を支払わねばならなかった。また民間所有の里山であっても国家に税金(山年貢などと呼ばれる)を支払うことが多かった[10]。
前述のように近世、特に石炭が燃料として普及する以前の日本列島における里山の負荷は一貫して高く、 村落共同体は里山の植生崩壊を防止する為に様々な規則を作って対応した。これらの規則は「村掟」「村定」「村規則」などと呼ばれ、里山を入会地として持つ村であればほぼ確実にこの種の規則を文書として備えていた。村掟によって定められる里山の利用規則は極めて詳細かつ厳密なものであり、例えば肥料用の草は刈り取って良い量が家ごとに決められていることも珍しくなかったし、刈り取って良い時期が厳密に設定されている(「口開け」と呼ばれる)ことも多かった。村掟を破った者への制裁も予め決められており、多くは米や銀による科料の支払い+盗伐分の返還が科されていた。またこれらの他に労働奉仕も科される例や、盗伐者が科料を払えない場合の五人組による連帯責任による科料支払いが決められている例もある。里山を切り開いて建設されたゴルフ場。
特に住民の数に対して利用可能な里山が少ない地域では、里山の管理は厳重なものであり、許可されていない場合は草を一掴み刈り取ったり、木の枝を一本折るだけでも罰せられる場合すらあった。夜間の盗伐を防ぐ為に持ち回りで里山の夜番をしていた村もあったほどである。それだけ厳重な管理をしても里山の盗伐は頻発し、また村々入会の里山では、里山を巡っての村と村の間での対立も続出した(山論と呼ばれる)[11]。
このように近世の里山とは決して村落共同体と自然が調和したユートピア的空間などではなく、国家や村落共同体が厳重な管理体制を敷かなければオーバーユースによるカタストロフに直結するような場だったのである。
明治期以降、里山は国有林となるか、あるいは細切れに分割されて個人所有となる、自治体に所有されるといった所有形態に移行した。このうち都市に隣接する地域の里山の多くはデベロッパーに転売されて宅地やゴルフ場などのレクリエーション施設へと変貌していった。
現在の里山が抱えている問題の一つに、税金負担の問題がある。山林の固定資産税そのものは宅地や農地に較べて安価に設定されているが、代替わりの際に発生する相続税では、山林の評価額は近隣の宅地の評価額マイナス造成費となる。しかし実際に所有者がその価格で売却しようとしても、デベロッパーには足元を見られて買い叩かれるか、場合によっては買い手が付くことさえ無い為、所有者は平地に持っている農地などを切り売りして資産価値の無い山林を持ち続ける(その余力も無い場合は相続税を支払えず破産する羽目に陥る)しか無いのである[12]。
歴史を遡ると、近世までに日本の里山の大半はアカマツ林、あるいは草山、禿げ山となっていた。本来の植生は木材や薪の切り出しによって失われ、落ち葉や草の類も田畑の肥料として搬出されてしまった為に土壌の栄養分が乏しくなり、痩せた土地でも生きられるアカマツが優勢となってしまったのである。またアカマツは近世日本の農業にとっては非常に使い勝手が良い樹種でもあり、選好して植えられたということもあった。有岡は江戸期に描かれた各地の名所図会に登場する山の大半が、局所的に松が茂る禿げ山として描写されていることを、この傍証として挙げている[13]。
しかし化石燃料や化学肥料の普及によって里山の経済価値が失われると里山の植生はアカマツ林から徐々に変化していった(アカマツは陽樹であるため、他の樹種が侵入してくると次の世代が繁殖出来なくなる)。例えば20世紀後半から21世紀にかけての関東近辺では、クヌギやコナラなど、落葉性のブナ科植物を中心とする森林が出現している。ちなみにこの地域の本来の極相は常緑広葉樹林であるが、近世ほどではなくともある程度の人の影響があると、このように極相ではなく落葉樹林の状態で安定する場合もある。同じような条件でも、より南の地域では、これらのほかに常緑のシイがよく出現する。このような、人為的攪乱などにより、極相が壊れて成立した植生を代償植生という。
また近年では放置された孟宗竹の竹林が無秩序に拡大して落葉樹林や広葉樹林を竹林に変えてしまう竹害も、里山の植生として無視出来ないものとなっている。
まとめると、歴史的に見て日本列島の里山は植生が極度に破壊された禿げ山、草山、アカマツ林から、本来の極相とは違う形で安定した二次林、あるいは竹害的な竹林、そしてその土地本来の極相林など、多様な植生が存在する場所であるということが言える。
自然保護の立場から、人為的撹乱がある里山を「ニセモノの森」とみるみかたがある。これは、潜在自然植生を重視する考え方である。それにたいして、主体を人間に置き持続可能な開発のモデルとして里山の復権を主張する考え方もある。このなかには「荒れた雑木林」という新しい概念が導入されている。
ただ、20世紀後半以降は里山は完全に放置される場合が多く、本来の極相に戻りつつある地域も多い。有岡はこのような状況を評して、弥生式農耕の開始以降、平成期ほど里山が樹木に覆い尽くされている時代は無かったと指摘している[14]。
特定の地域社会で共有される自然資源を指す概念として「ローカル・コモンズ」という言葉がある。里山は無償で利用はできるが、物理的なアクセスが地域コミュニティのメンバーに限定されていたり、現地住民の管理下に置かれていたりする場合もある。そのようなローカル・コモンズとしての意味合いが強い里山では、フリーライダーやモラルハザードは抑制される傾向にある(→コモンズの悲劇)。
日本に於いてはこうしたコモンズを「入会地(いりあいち)」と呼ぶ。
近世では「村中入会」「村々入会」「他村持地入会」など様々な形態の入会が存在した。「村中入会」はある特定の村の中に入会地があり、その村の住人のみがその入会地を利用出来るという形態である。「村々入会」は複数の村が入会地に接しており、入会地に接する村の住人のみがその入会地を利用出来るという形態である。また「他村持地入会」は、ある村の住人が自村に接していない入会地を利用出来る形態である。この場合、その入会地を持つ村に入会料として現銀が払われることになる。入会権を持つ人間はその入会地の毛上(けじょう)を利用することが出来る。なお、毛上とは動植物のことである。
こうした入会地としての里山は、明治維新とともに大きく変化することになる。明治政府の地租改正作業の中で、入会地が入会権を持つ諸個人の私有地に分割され、入会地ではなくなっていくこともあったし、また入会地であることの証明が無ければ官有地とするという明治政府の政策により、数多くの入会地としての里山が官有地として召し上げられたと考えられている。この時、明治政府は明確な書証あるいは口碑がある場合にのみ、入会地を官有地にしないという方針を採ったが、書証が無い入会地については、その入会地に隣接する村から公式な証言が得られた場合に入会地として認めるという方法を採用した。ところが、こうした村の中には、かつて山論で敗れてその入会地から排除された村もあり、かつての遺恨から執拗に入会地としての証明を拒み、あるいは妨害するという事例も見られた[15]。
また民俗学者の宮本常一は、明治期に官有地として没収された入会地を取り戻す訴訟を行う為、成人後に読み書きを学んだ大阪府河内長野市滝畑の人物の事例を報告している[16]。