選抜高等学校野球大会
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歴史
1924年 第1回 和歌山中学が大毎野球団に働きかけた事により[3]、選抜中等学校野球大会として山本球場(のちの八事球場)で開催。
1925年 第2回 会場を夏の大会と同じ甲子園に変更。以降、甲子園で開催するようになる。
1926年 第3回 ラジオ中継開始。
1927年 第4回 大正天皇崩御の関係で4月下旬から開催し、決勝戦は5月に開催。優勝校のアメリカ遠征制度が開始。
1929年 第6回 今大会から勝利校の校歌演奏と校旗掲揚が開始される。
1932年 第9回 優勝校のアメリカ遠征制度廃止。
1933年 第10回 前年度優勝校の無条件出場制度が廃止される。
1942年から1946年までは太平洋戦争と、その終戦の混乱により大会は中止。
1954年 第26回 テレビ中継開始。
1959年 第31回 皇太子(今上天皇)の結婚式によって、決勝戦のテレビ中継が中止になる。
1962年 第34回 準々決勝の作新学院対八幡商の試合が春の甲子園としては初の延長18回引き分け再試合となった(春夏通じて2回目)。
1973年 第45回 山形県勢(日大山形)が出場したのを最後に空白県が消える。
1984年 第56回 大会2日目第1試合の佐賀商対高島戦で、佐賀商の選手の打球がラッキーゾーンの手前でワンバウンドしてから入ったにもかかわらず本塁打(満塁)となる。同大会まで歴代優勝校名入りの白いプレートを外野フェンスに掲示することがセンバツの風物詩となっていたが、この事件がきっかけで同日を以てプレートの掲示を取り止めた。さらに翌年からレフト「主催:日本高等学校野球連盟・毎日新聞社」ライト「第57回 選抜高校野球大会」の表示も黒地に白文字に改める。
1992年 第64回 今大会からラッキーゾーンが撤去される。
1995年 第67回 今大会から従来開会式前々日だった組み合わせ抽選日を一週間前に繰り上げた上で、一日の割り当て試合数を原則最大3試合とし、会期を一日延長。これ以降11日間開催が定着する。外野のフェンスにはライト・レフト共に『阪神・淡路大震災』に関するメッセージが書かれていた(ライト側は高野連と毎日新聞社による「復興・勇気・希望」、レフト側は兵庫県と西宮市による「全国の皆さん、温かいご支援感謝します。」)。被災者や復興工事関係者に配慮して学校応援団には電車利用を促した上で鳴り物を自粛させる。
1997年 第69回 日高中津分校が分校として初めて出場。
1998年 第70回 日程が2日間順延のうえ、決勝戦当日も雨天の予報だったため試合開始を9:30に繰り上げて行う。優勝した横浜は夏も制し、春夏連覇達成。
1999年 第71回 沖縄尚学が沖縄県勢として初優勝を果たす。
2001年 第73回 今大会から21世紀枠が設けられる。
2003年 第75回 今大会から神宮大会枠および希望枠が設けられる。準々決勝の東洋大姫路対花咲徳栄戦は、春・夏大会通じて初めての「引き分け再試合の延長戦」となった。
2004年 第76回 今大会から準々決勝を選手の健康負担を理由に「1日2試合ずつ、2日間の日程」で開催。決勝戦当日は雨天だったため開始時刻を16:00と大幅に遅らせ決勝戦史上初のナイターとなる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:Mamenoki