1927年の第4回大会から、主催の大阪毎日新聞社が野球の本場メジャーリーグの見学や日米親善という趣旨により、この年から優勝校のアメリカ遠征が行われるようになった。この制度によってアメリカに遠征した優勝校は和歌山中(和歌山)、関西学院中(兵庫)、第一神港商(兵庫)、広島商(広島)の4校。
アメリカ遠征は夏休みを利用して行い、7月中旬から9月中旬までの長期に渡り、メジャーリーグの試合見学や地元高校との親善試合も行った。夏の大会開催中に主力選手がアメリカ遠征に行っているため、春の優勝校は控え選手で夏の大会予選を戦うことになった。その中で1927年の春の優勝校だった和歌山中は控え選手で夏の大会の予選を制し、全国大会に出場した。
1932年、外国チームとの試合を禁止する野球統制令を政府が出したことにより、それ以降は優勝校のアメリカ遠征は中止になった。
なお、春の優勝校のアメリカ遠征に関しては、春の大会を主催していた毎日新聞社が、朝日新聞社が主催していた夏の大会の興味をそぐ目的があったという陰謀説も存在する。
1933年の第10回大会では出場校32校中、海草中、和歌山商、海南中、和歌山中と和歌山県から4校出場していた。また、1937年の第14回大会では出場校20校中、中京商、東邦商、享栄商、愛知商と愛知県から4校出場している。
なお現在では、通常枠での同一都道府県からの出場は2校までと決められている。21世紀枠を含めての3校出場は可能だが、地域性の問題もあるため選考されるのは非常に難しいと推測される。2001年の第73回大会には茨城県から水戸商、常総学院、藤代の3校が選出された例もある。通常秋季関東大会は1県2校出場だが開催県のみ3校出場で開催県だった茨城県の3校がすべてベスト4に入ったため選出された。
優勝旗
選抜大会の優勝旗は「大紫紺旗」と称されている。これは紫に近い色の糸を使っているためで、赤い糸を使っている夏の全国高等学校野球選手権大会の優勝旗は「大深紅旗」と称されている。現在の旗は2代目で、第35回記念大会が行われた1963年に第1回大会から使用されていた初代に代わり新調されたもの。初代と現在の旗との相違点は以下の3点。
大会名 - 初代は「全国選抜中等学校野球大会」に対し、現在は「全国選抜高等学校野球大会」。
主催新聞社名 - 初代は「大阪毎日新聞社」に対し、現在は「毎日新聞社」になっている。1943年「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」が題号を「毎日新聞」に統一した事により、商号も毎日新聞社に変更したため。
「VICTORY」の文字 - 初代は染めぬきだが、現在は金の糸を使って織られており、少し文字が大きくなっている。
初代の優勝旗を最後に手にしたのは作新学院高等学校(栃木)で、現在の優勝旗を最初に手にしたのは下関商(山口)だった。
春の全国大会には準優勝旗が存在する。夏の全国大会には存在しない。(木内幸男(当時常総学院監督)が夏にも準優勝旗があると勘違いしていたのは有名。)色は夏の優勝旗と同じ深紅で3代目である。
優勝旗は、大会の閉会式にて優勝校に授与され、翌年の大会の開会式にて前年優勝校から大会会長に返還される。その返還の際、優勝旗のレプリカが代わりに授与される。このレプリカの意匠は優勝旗とほぼ同じだが、模様・文字は全部染めぬきであり、“第○回”および校名が付加される。
本大会においての連覇は現在2例ある。
春の大会の連覇回開催年学校連覇備考
61929年第一神港商(兵庫)2連覇優勝校のアメリカ遠征2連続
71930年
531981年PL学園(大阪)2連覇学制改革後の連覇
541982年
春夏連覇、夏春連覇は高校野球を参照されたい。
春・夏とも高校生が担当するようになる以前の開・閉会式の司会は男性職員だった。ただ各々別の人だったので、主催者か高野連関係者が担当したと推測される。
春の開会式は仕掛け花火をバックに選手が入場するのが特徴となる。かつては風船やハトを飛ばすこともあった。なお第67回大会は入場行進を簡素化したため行われなかった。また天候の関係上花火が省略されることもある。
開会式の選手入場での学校紹介は、夏はウグイス嬢が「(地区名)代表、○○高校。」と読み上げるが、春は以前は男性職員、現在は高校生司会者が「○○高校、(所在都道府県名)、○年ぶり○回目(○年連続○回目、初出場)。」と出場回数を紹介するのが特徴。
また、開会式では国旗・大会旗のみならず、前年度優勝校の校旗を同校校歌の吹奏と共に掲揚するのも当大会の特徴となっている(夏は未実施)。なお、春夏とも各旗の掲揚(降納)については1970〜2000年頃は開会式では全出場校の主将が、閉会式では進出校の全選手がバックスクリーンの掲揚台に上って行っていた。現在どの団体の関係者が行っているかは不明。
表彰式の演奏曲は、夏はスタンダードな「見よ、勇者は帰る」(ヘンデル作曲)が使用されるが、春は大会オリジナルの「栄光」(永野慶作作曲)が用いられている。導入のきっかけは1973年のオイルショックである。ユダヤ戦士を称える「見よ、勇者は帰る」を使うとアラブ諸国から石油を売ってもらえなくなる恐れから、翌年急遽この曲が作成された。[4]急ごしらえで作成された「栄光」だが、使用後の評価が高かったため、それ以後継続して使われ続けている。ちなみに、同じ毎日新聞主催(日本野球連盟と共催)の社会人野球日本選手権大会の開・閉会式でも使用されている。
なお、開会式の選手退場は、夏は普通に行進で退場するが、春は駆け足で退場する。
1969年の秋の東京大会において帝京商工高等学校(現・帝京大学高等学校)が準優勝し、東京都高野連も翌年1970年の第42回選抜高等学校野球大会に推薦した。しかし、高野連の選出委員会は帝京商工の火事による資料の喪失から戦力分析が不可能との理由で帝京商工を選出しなかった。
帝京商工はこれを不満として1970年2月20日に高野連を相手取り代表決定の効力停止の仮処分を大阪地方裁判所に申し立てた。これに対して東京都高野連が本校の対外試合を禁止する制裁を決定。さらにこの制裁に対して本校が東京地方裁判所に仮処分を申請するなどの泥仕合となった。
この際に帝京商工側が「選抜落選や試合禁止は野球選手としての就職が不利になる」としたことから高校野球においてされたことからそのような考え方の是非について議論を巻き起こした。3月9日には対外試合禁止が撤回され、3月12日には大阪地方裁判所で申立てが却下され、続いて東京地方裁判所に対する申立ても取り下げられ問題は決着した。