以下は御所を警備したが、近衛兵とはいえない。
京都大番役
京都守護
六波羅探題
京都所司代
京都奉行
京都守護職
十津川郷士奈良県十津川村の郷民は、672年の壬申の乱には大海人皇子の吉野軍に加わり、鎌倉時代末には大塔宮護良親王を守護し、また南北朝時代には吉野行宮や賀名生行宮を守護し、江戸時代末には御所を守護し、1871年(明治4年)には郷民全員が士族に列せらた。
1871年(明治4年)2月に出された御親兵召集の命令に応じて、鹿児島藩、萩藩及び土佐藩から差し出された兵によって、政府直轄の御親兵が置かれる。この兵力を背景に、廃藩置県が行われる。1871年9月3日には、「兵部大少輔御親兵少佐以上ヘ勅語」が下され励精尽力が命ぜられる。
近衛・近衛師団
1872年(明治5年)2月に近衛条例を制定して、天皇に直隷する近衛都督の下、壮兵からなる近衛兵を創設した。1873年1月に制定された徴兵令に基づく徴兵は鎮台にのみ配備されることとなり、近衛の壮兵制は維持された。1878年に近衛砲兵の一部が騒動を起こす(竹橋事件)。近衛都督は、初代が山縣有朋、2代が西郷隆盛である。
明治13年10月5日達乙第62号による改正後の「近衛条例」によると、近衛兵は、専ら輦下を護衛し、特旨によらない限り、他の徴発に応じるものではない。上旨を奉戴し、千軍万馬の中といえども、整々独歩の勇を持ち、平常にあっては信義を本とし、先進を敬い、後進を教導し、全国諸兵の模範となることが求められた。(近衛参照)
その後、明治23年3月25日に近衛司令部条例(明治23年3月25日勅令第46号)が制定され、原則として、近衛都督の職務権限は師団長と同一となった。更に、1891年(明治24年)12月12日に近衛も師団制を採用して近衛師団となる。近衛師団に改編後の詳細は近衛師団参照。
竹橋事件により、近衛兵以外の宮城警備組織として宮内省に、古代の宮城門を守衛する伴部の称を復活し「門部」を設置した。
明治19年、門部は皇宮警察に改編された。皇宮警察は近衛師団よりも天皇に近侍して警衛した。近衛師団は反乱を起こすこともあったが(竹橋事件、二・二六事件及び宮城事件。)、皇宮警察は現在に至るまで一度も反乱を企てず天皇と宮城を警備した。
禁衛府(1945年-1946年)を参照。
1945年(昭和20年)、終戦に伴い近衛師団と皇宮警察を統合して、宮内省に禁衛府が発足。近衛師団は禁衛府皇宮衛士総隊に、皇宮警察は禁衛府皇宮警察部に改組される。
警視庁皇宮警察部(1947年-1948年)・皇宮警察本部(1954年-)を参照。
1946年(昭和21年)に禁衛府は解体されたものの、禁衛府皇宮警察部のみは皇宮警察署として分離して存続する。1946年末には宮内省から内務省に移管され、1947年(昭和22年)には警視庁皇宮警察部として移管される。旧警察法の施行に伴い、1948年3月に国家地方警察本部に移管され皇宮警察府とされたが、6月には皇宮警察局と再び改称される。1954年(昭和29年)に現在の警察法が施行されるに伴い、警察庁皇宮警察本部と改称される。1954年に警察庁の附属機関として皇宮警察が置かれる。英名は「Imperial Guard」である。皇宮警察の紋章は五三の桐である。
皇宮護衛官の制服は、一般の警察官と同様のものを着用する(皇宮護衛官の服制に関する規則(昭和31年12月19日国家公安委員会規則第5号))。もっとも、制服の上衣、活動服及び防寒服の両襟部に皇宮護衛官章(金色で五三の桐の紋が描かれた金縁付き赤紫色の丸バッジ)を着用する。また、それ以外に、宮殿で儀式が行われる場合等には特別の「儀礼服」を着用する。
⇒皇宮警察本部
隋朝では禁軍(近衛軍)として、十二衛が置かれた。2代皇帝・煬帝は宇文化及らが率いる禁軍によって殺害された。
唐朝では禁軍(近衛軍)として、皇帝を護衛する北衙禁軍(左右羽林軍・左右龍武軍・左右神武軍・左右神策軍)と首都を警備する十二衛が置かれた。この他に皇太子を護衛する六率府もあった。