赤穂浪士の討ち入り
モバゲーを超えたコミュ!
[モバコミ]なら会えるさ

[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]


吉良家屋敷替え

大石が御家再興運動や堀部らとの論争をしている頃、江戸幕府では吉良家に対して厳しい処分を下し始めていた。まず元禄14年8月19日(1701年9月21日)に吉良家の屋敷が江戸城のお膝元呉服橋から当時江戸の外れといわれていた本所(現東京都墨田区両国3丁目)の松平登之助の上ゲ屋敷に屋敷代えとなり、さらにその直後の8月21日8月23日)には、庄田下総守(浅野を庭先で切腹させた大目付)、大友近江守義孝(吉良義央と親しくしていた高家仲間)、東条冬重(吉良義央の実弟)の三名を同時に呼び出して「勤めがよくない」などと咎めて役職を取り上げた。

この状況に吉良も高家肝入職への復帰を絶望視し、12月12日1702年1月9日)には家督を養子左兵衛義周に譲って隠居してしまった。またさらに吉良上野介には実子として出羽国 米沢藩上杉綱憲(15万石)がいたので、吉良が米沢城に移るという噂もたった。奥方富子も屋敷替えになった際に上杉家の実家に帰っていた。富子が新しい屋敷に同道せず上杉家へ戻った理由は諸説あり定かではない。離婚説、「浅野が腹を切ったのだから貴方も切ったらどうです」といったせいで不仲になった説、討ち入りを案じて吉良が帰した説、新しい屋敷がせまくて女中を連れていけなかった説などがある。


円山会議

年末からは脱盟者も出始め、同志の1人萱野三平は父の萱野七郎左衛門と浅野家への忠孝の間で苦悩して自害、橋本平左衛門遊女はつと恋仲となり、忠義を捨てて彼女と心中してしまった。また江戸急進派の中心人物高田郡兵衛も旗本内田三郎右衛門との養子縁組騒動を機に脱盟した。高田の脱盟は江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。内蔵助はこれを好機として元禄15年(1702年2月15日3月13日)の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定する。

3月5日4月1日)、吉田忠左衛門(200石加東郡郡代)と近松勘六(馬廻250石)がこの決定を江戸の同志達に伝えるべく下向した。吉田はまず江戸で孤立していた片岡源五右衛門ら内匠頭近臣組と面会すると説得して大石の盟約に加わらせている。そして3月8日4月4日)に江戸急進派のリーダー格の堀部安兵衛と両国米沢町(現東京都中央区東日本橋2丁目)で会談に及んだ。しかし案の上安兵衛ら江戸急進派は決定に納得せず、内蔵助をはずして代わりに原惣右衛門を大将にして独自に決起することを模索しつつ、6月には内蔵助との最後の調整のため堀部安兵衛が自ら京都へ乗り込んでくることとなった。安兵衛は「もはや大石は不要」として内蔵助を斬り捨てるつもりだったとも言われる。しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて内蔵助もお家再興が難しい情勢を知ったとされる。また7月18日8月11日)には、実際に幕府が浅野大学長広に広島藩への永預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは完全に絶たれる。内蔵助も以降は討ち入り一本と決め、安兵衛ら江戸急進派との対立はここに解消された。

7月28日8月21日)、内蔵助は、堀部安兵衛も招いて京都円山で同志との会議を開き、本所吉良屋敷への討ち入りを決定した。


神文返し

堀部安兵衛は早速これを江戸急進派の同志達に伝えるべく江戸へ戻っていった。また大石内蔵助はお家再興だけを目当てに盟約を参加していた者がいるであろうことを鑑みて、大高源五貝賀弥左衛門に同志を訪ねさせて義盟への誓紙を一度返却させ、盟約から抜ける機会を与えた。大高源五たちは誓紙の返還を拒んだ者だけに仇討ちの真意を伝えた。この行為は「神文返し」と呼ばれた。 この頃には江戸の同志や遅れて出した同志も足して130人を超えていたが、神文返しによってその数は60人以下になったとされている。

重臣のなかで脱盟したのは、奥野将監定良(組頭1000石)、進藤源四郎俊式(足軽頭400石)、小山源五左衛門良師(足軽頭300石)、河村伝兵衛(足軽頭400石)、佐々小左衛門(足軽頭200石)、多川九左衛門(持筒頭・足軽頭400石)、月岡治右衛門(歩行小姓頭300石)、岡本次郎左衛門重之(大阪留守居400石)、糟谷勘左衛門秀信(用人250石)など。

なかでも奥野将監は大石内蔵助をのぞけば浅野家中で最上の1000石取りの重臣で、また進藤源四郎と小山源五左衛門は、大石内蔵助の叔父にあたる者だった。御家再興運動では大石の参謀として働いた者たちだった。ある程度の脱盟は予想していた内蔵助もさすがにこの三人の脱盟は予想できず、その脱盟を非常に惜しんだという。

この時点で同盟に残った上方の同志たちは、残される家族の処置をしてから続々と江戸へ向かっていった。

この家族の処置にあたって特に苦難したとされるのは若年の同志矢頭右衛門七で、赤穂退去後、矢頭家は大阪に移住していたが、ここで父矢頭長助が病死してしまう。右衛門七は、母妹達をつれて母の実家がある奥州白河藩へ向かったが、荒井関所を女人手形不携行のため、通してもらえなかった。結局右衛門七は大阪の知人に母たちを預けて江戸へ下向している。

内蔵助は、盟約に加わることを望んだ嫡男大石主税良金だけを自分のもとに残して、妻りくや子供らは絶縁の上、豊岡の石束源五兵衛毎公のところへ帰している。特に連座が予想される次男の吉千代は仏門に入れている。そして9月19日11月8日)、まず嫡男の大石主税を江戸へ下向させた。続いて10月7日11月25日)には内蔵助自身も江戸へ出立する(第二次大石東下り)。第一次とは違い、今度こそ吉良を討つための下向であった。


討ち入りまで

道中の富士で内蔵助は曾我兄弟の墓を詣でたという。ドラマ等では、「日野家用人垣見五郎兵衛」と変名していた大石が、道中本物の垣見五郎兵衛と出会うといった演出がされたものもある。

10月23日12月11日)には鎌倉へ到着。ここで吉田忠左衛門らが大石を出迎えた。


モバゲーを超えたコミュ!
[モバコミ]なら会えるさ

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:120 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki