赤松政則
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応仁の乱

寛正6年(1465年)に元服する。文正元年(1466年)、細川勝元らにより第8代将軍・足利義政の近臣であった伊勢貞親や禅僧の季瓊真蘂らが政界を追われる文正の政変が起こると、政則も失脚した。しかし、勝元の支援を受けることで政界に復帰する。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では、東軍(細川勝元側)に与したことにより、赤松氏の旧領であった播磨・備前美作を回復する。文明3年(1471年)には侍所頭人に任じられる。


山名氏との対立

ところが播磨をはじめ、山陽に勢力を回復したために山陰に勢力を張る宿敵・山名政豊との対立・抗争が起こり、応仁の乱の収束後も抗争は続いて、文明15年(1483年)に浦上則宗より福岡城への救援を求められたが、援軍を送る一方山名氏の本領である但馬攻めにこだわり真弓峠にて山名政豊に大敗し、逆に播磨へと追撃されて福岡城も陥落してしまった。その失策により浦上則宗・小寺則職ら重臣らがいったん実権を握り、政則は堺へと出奔した。則宗は一族の有馬澄則を擁立する動きを見せるなど分裂の様相をみせるが、この内紛を突いた山名氏の進撃により窮地に陥った為、足利義政の仲介により政則と和解する。その後5年に渡る攻防が続き、長享2年(1488年)に山名勢を駆逐して領国支配体制を確立した。


従三位へ

第9代将軍・足利義尚、第10代将軍足利義材にも仕え、軍奉行として従軍するなど勲功を重ね、明応2年(1493年)、堺に在陣中に細川政元の妹である洞松院を娶る。洞松院は竜安寺の尼僧から還俗。このとき30歳を越えており、不器量で有名であった。この婚姻の際も「天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな」との落首が京都で貼られたという。明応3年(1494年)には従三位に叙位される。

明応5年(1496年)4月25日、播磨加西郡坂田の長円寺で病死。享年42。

子に赤松村秀があったが庶子だったため、一族の七条家からの養子である赤松義村が後を継いだ。六道珍皇寺寺に肖像画所蔵がある。


人物・逸話

将軍・足利一門以外の武家の三位叙位は、政則が初である。

猿楽を奨励するなど一流の文化人として名を馳せるが、猿楽師を家臣にしようとして家中での反感を買ったこともあった。

大名にしては珍しく刀工としても一流で、名工・長船宗光に師事したと言われ、後世に幾つかの名刀を残している。そのほとんどが家臣に与えられたものである。[1]


関連項目

赤松氏

置塩城


参考資料^赤松政則刀


先代:
赤松満祐守護・赤松氏
赤松政則次代:
赤松義村
カテゴリ: 赤松氏 | 守護大名 | 1455年生 | 1496年没

更新日時:2008年9月26日(金)23:14
取得日時:2008/11/14 06:27


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki