貴族院_(日本)
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皇族議員

満18歳に達した皇太子・皇太孫と、満20歳に達したその他の皇族男子は、自動的に議員となった。定員はなく、歳費もなかった。

貴族院規則4条で「皇族ノ議席ハ議員ノ首班ニ置キ其ノ席次ハ宮中ノ列次ニ依ル」となっていた。ただし、皇族が政争に巻き込まれることは好ましくないという考えから、皇族は議会で催される式典などに参列することはあっても、議員として日常的に議会内に立ち入ることは帝国議会史上、極めて稀であった[2]


華族議員

華族議員は、華族から選任された。爵位によって、選任方法、任期その他の定めが異なった。

なお、朝鮮貴族は朝鮮貴族令5条により華族と同一の礼遇を享けるものとされたが、華族議員となる資格はなく、勅任議員として貴族院議員に列した。

公爵議員・侯爵議員

満25歳に達した公爵侯爵は、自動的に議員となった。定員はなく、歳費もなかった。

1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢が満30歳に引き上げられた。また、勅許を得て辞職すること及びその後勅命により再び議員となることが認められた。



伯爵議員・子爵議員・男爵議員

満25歳に達した伯爵・子爵・男爵のうちから、同爵の者の互選で選ばれた。互選の方法などについては、貴族院伯子男爵議員選挙規則(明治22年勅令第78号)に定められた。1890年(明治23年)7月10日、第1回貴族院伯子男爵議員互選選挙が行われた。

設立時は、伯子男爵議員の定数は、各爵位を有する者の総数の5分の1を超えない範囲とされた(第1回帝国議会において伯爵14名、子爵70名、男爵20名。第21回帝国議会において伯爵17名、子爵70名、男爵56名)。

1905年(明治38年)の貴族院令改正(明治38年勅令第58号)により、伯子男爵議員を通して定数143名とし、各爵位を有する者の総数に比例して配分することとなった。これは、日清戦争日露戦争を経て、華族(戦功華族、新華族)の数が急増したことによる議員数の増加を抑えるための措置である。

1909年(明治42年)の貴族院令改正(明治42年勅令第92号)により、伯爵17名、子爵70名、男爵63名とされた。

1918年(大正7年)の貴族院令改正(大正7年勅令第22号)により、伯爵20名、子爵73名、男爵73名と増員された。

1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢は満30歳に引き上げられ、定数は150名(伯爵18名、子爵66名、男爵66名)とされた。以後、貴族院廃止まで、定数変更はない。


勅任議員

勅選議員

国家に勲労あり又は学識ある30歳以上の男子の中から、内閣の輔弼により天皇が任命した。

帝国議会創設時には、61名が選出された(元老院議官27名、各省官吏10名、民間人9名、帝国大学代表6名、宮中顧問官6名、内閣法制局3名)。

当初、定員は、華族議員の総数以下とされた(1925年(大正14年)にこの規定は廃止)。1905年(明治38年)以後は、定員125人以内に固定された。



帝国学士院会員議員

1925年(大正14年)に新設された。帝国学士院会員で30歳以上の男子から互選。定員は4(帝国学士院は、分野ごとに2部に分けられたため、各部ごとに2名ずつ選出された)。互選の方法その他は、貴族院帝国学士院会員議員互選規則(大正14年勅令第233号)に定められた。



多額納税者議員

土地あるいは工業・商業につき多額の直接国税[3]を納める30歳以上の者の中から互選。互選の方法その他は、貴族院多額納税者議員互選規則(明治22年勅令第79号)に定められた。

当初は、各府県ごとに直接国税納付者15名より1名が互選された。北海道沖縄県は対象外とされたので定員は45名であった。

1918年(大正7年)に北海道・沖縄にも適用され、1925年(大正14年)には道府県ごとに多額納付者100名につき1名または200名につき2名に改められて定員は66人以内となった。

1944年(昭和19年)には樺太からも1名選出されることになり、定員67人以内と改められたが、敗戦による樺太喪失によって一度も選出は行われなかった。



朝鮮勅選議員・台湾勅選議員

朝鮮または台湾に在住する満30歳以上の男子にして名望ある者より特に勅任した。定員は10人以内。

1945年(昭和20年)に創設されたが、1946年(昭和21年)に朝鮮・台湾の統治権を失ったことにより廃止された。

朝鮮選出議員としては、伊東致昊、金明濬(金田明)、韓相龍、宋鍾憲(野田鍾憲)伯爵(朝鮮貴族)、朴相駿(朴沢相駿)、李軫鎬(李家軫鎬)、朴重陽(朴忠重陽)及び李埼鎔子爵(朝鮮貴族)が、台湾選出議員としては、許丙、緑野竹二郎及び林献堂がいる。なお、尹徳栄子爵(朝鮮貴族)、朴泳孝侯爵(朝鮮貴族)と辜顕栄(台湾出身)は勅選議員として貴族院議員になった。


歴史


発足と位置付け

伊藤博文天皇を中心とした君主制を維持するためにも、天皇を補佐する世襲貴族(華族)の必要性があると認識していた。従って、選挙による選出である衆議院とは対照的に、貴族院は世襲貴族をその中心に据えた。河野敏鎌は議員の地位を世襲とせず、華族による互選を主張したが、伊藤は「今世襲議員を貴族院より除くは取も直さず世襲貴族を廃するに同じ」と拒絶した。

貴族院関係法令の起草は金子堅太郎が担当した。金子は、当初「元老院」と仮称していたが、伊藤博文は外国の元老院は選挙による選出だから今回の議院とは性質が異なると否定した。その結果「貴族院」に決定したが、これは貴族中心の議院であることを積極的に表現し、天皇の藩屏として純粋な君主主義の立場を取り、民主主義に対抗する役割を期待されていた。また、当初の伊藤は政党内閣は事実上主権国体)が天皇から政党に移るから認められないと考えていた(もっとも、伊藤は後に立憲政友会を結党)。従って、貴族院は衆議院の政党勢力と対抗する存在と位置付けられた。戦前にも婦人参政権の導入、労働組合の容認、帝国大学の増設などの法案が議会に提出され、衆議院では可決されているが、こうした「進歩的内容」の法案が貴族院を通ることは決してなかった。

ただし、藩閥政権に対してもある程度の自立性を持ち、衆議院とその地位を競った結果、藩閥政権を幾度となく窮地に陥れてもいる。逆に、政権が政党に妥協した時には、反政党の立場から政権と対立したこともある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen