医学の現場では、目的が異なるいくつかの解剖が行われる。
上記の肉眼解剖学に相当し、特に系統解剖学と呼ばれる(系統は全身の意)。主に学生の教育のために、大学医学部、歯学部、防衛医科大学校の解剖学の教育担当者の指導の下に行われる。解剖に用いる遺体は、日本ではそのほとんどすべてが献体制度により、本人の遺志および遺族の同意に基づいて提供された遺体が用いられている。遺体は、ホルマリン、アルコール等により、あらかじめ固定・防腐処理されており、学生は数週間?数ヶ月をかけて解剖実習を行う。
系統解剖学の分類
骨学(英osteology,羅osteologia)
靱帯学(英syndesmology,羅syndesmologia)
筋学(英myology,羅myologia)
内臓学(英splanchnology,羅splanchnologia)
感覚器学(英aesthesiology,羅aesthesiologia)
脈管学(英angiology,羅angiologia)
神経解剖学(英neuroanatomy,羅)
いわゆる病理解剖。病院で死亡した患者について、その死亡原因が不明である場合や施した治療の効果を判定する必要がある場合などに、病院の病理学の知識を持った専門医師(病理医)によって行われる。遺族の同意に基づいて行われる。主に大学病院や先端医療を行う研究機関としての役割も併せ持った総合病院で行われる場合が多い。
この解剖に関する知識体系は、解剖学ではなく病理学である。
司法解剖、行政解剖がこれに当たる。前者は大学の医学部または医科大学の法医学教室が担当し、犯罪に関与すると思われる死体を対象とする。後者は監察医または監察医制度の置かれていない地方では大学の法医学教室が担当し、病院で亡くならずに、また犯罪にも関与しない死体を対象とする。例外的に、東京の監察医務院では司法解剖に分けられる異状死体についても検案の対象としている。
この解剖に関する知識体系は、解剖学ではなく法医学である。
日本における人体解剖は宝暦4年(1754年)閏2月7日、山脇東洋が京都で刑屍に行なったのが最初であるとされる。その後、明和4、5年(1767年、1768年)には東洋の子の玄侃が、7年(1770年)に荻野元凱、河田信任などが、刑屍を解剖したが、前野良沢、杉田玄白などが小塚原で解剖を行なったのは8年(1771年)3月4日のことである。寛政5年(1793年)に晁俊章が、8年(1796年)に柚木太淳が、10年(1798年)施薬院三雲が、刑屍の解剖を行なって記録を残した。呉秀三によれば、山脇東洋の宝暦4年(1754年)の解剖から、田代万貞、半井仲庵などが文久元年(1861年)福井で行なった解剖まで、記録に残るだけで34回に達しているという。解剖が系統的に行なわれる用になったのは明治3年(1870年)以後である。ただし、明治2年(1869年)に井上美幾女の死体が解剖された事があり、その墓は東京白山の念速寺にある ⇒[1]。3年長谷川泰、石黒忠悳により大学東校から解剖のことを弁官に申請し、裁可を得た。すなわち同年10月20日付の申請に対して即日、「可為伺之通事」という裁可があった。同月27日に清三郎の死体が第一号として解剖され、12月までに52体集まった。その中には雲井龍雄の死体もあった。 この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
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