西郷隆盛
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第一次長州征伐前後

元治元年(1864年)7月23日に長州藩追討の朝命(第一次長州征伐)が出、24日に徳川慶喜が西国21藩に出兵を命じると、この機に乗じて薩摩藩勢力の伸張をはかるべく、それに応じた。8月、四国連合艦隊下関砲撃事件が起きた。次いで長州と四国連合艦隊の講和条約が結ばれ、幕府と四国代表との間にも賠償約定調印が交わされた。この間の9月中旬、西郷は大坂で勝海舟と会い、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにした。10月初旬、御側役・代々小番となり、大島吉之助(『詳説西郷隆盛年譜』によれば、この名は沖永良部島在島以来らしい)から西郷吉之助に改めた。

10月12日、西郷は征長軍参謀に任命された。24日、大坂で征長総督徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。そこで、吉井友実・税所篤を伴い、岩国で長州方代表吉川監物と会い、長州藩三家老の処分を申し入れた。引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴き、副総督松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督島津久明にも経過を報告した。結局、西郷の妥協案に沿って収拾がはかられ、12月27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、慶応元年(1865年)初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまで福岡で預かることで一応決着した。


第二次長州征伐と薩長同盟

慶応元年(1865年)1月中旬に鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ますと、人の勧めもあって、1月28日に家老座書役岩山八太郎直温の二女イト(絲子)と結婚した。この後、前年から紛糾していた五卿移転とその待遇問題を周旋して、2月23日に待遇を改善したうえで太宰府天満宮の延寿王院に落ち着かせることでやっと収束させた。これと平行して大久保・吉井らとともに九州諸藩連合のために久留米藩・福岡藩などを遊説していたが、3月中旬に上京した。この頃幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の3事を実現させるために、2老中に4大隊と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていたが、それを拒否する勅書と伝奏が所司代に下され、逆に至急将軍を入洛させるようにとの命が下された。これらは幕権の回復を望まない西郷・大久保らの公卿工作によるものであった。

5月1日に西郷は坂本龍馬を同行して鹿児島に帰り、京都情勢を藩首脳に報告した。その後、幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。9日に大番頭・一身家老組に任命された[4]。この頃、将軍徳川家茂は、勅書を無視して、総督紀州藩主徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、閏5月22日に京都に入った。翌23日、家茂は参内して武力を背景に長州再征を奏上したが、許可されなかった。6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した。

この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、6月11日、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。それに加え、24日には京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績をつくった。また、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、10月初旬に鹿児島へ帰り、15日に小松とともに兵を率いて上京した。この頃長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。

9月16日、英・仏・米・蘭四国の軍艦9隻が兵庫沖に碇泊し、兵庫開港を迫った。一方、京都では、武力を背景にした脅迫にひるみ、9月21日、朝廷は幕府に長州再征の勅許を下した。また、10月1日に前尾張藩主徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も、一旦は拒否したが、将軍辞職をほのめかしと朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した。これは強制されたものであったとはいえ、安政以来の幕府の念願の実現であり、国是の変更という意味でも歴史上の大きな決定であった。

慶応2年(1866年)1月8日、西郷は村田新八・大山成美(通称は彦八、大山巌の兄)を伴って、上京してきた桂小五郎(木戸)を伏見に出迎え、翌9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。21日(22日という説もある)、西郷は小松帯刀邸で桂小五郎と薩長提携六ヶ条を密約し、坂本龍馬がその提携書に裏書きをした(薩長同盟)。その直後、龍馬が京都の寺田屋で幕吏に襲撃されると、西郷の指示で、薩摩藩邸が龍馬を保護した。その後、3月4日に小松清廉・桂久武・吉井友実・坂本龍馬夫妻(西郷が仲人をした)らと大坂を出航し、11日に鹿児島へ着いた。4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが入れられると、5月1日から小松・桂らと藩政改革にあたった。

第二次長州征伐は、6月7日の幕府軍艦による上ノ関砲撃から始まった。大島口・芸州口・山陰口・小倉口の四方面で戦闘が行われ、芸州口は膠着したが、大村益次郎が指揮した山陰口は奇兵隊を中心とする諸隊の活躍で連戦連勝し、大島口・小倉口も高杉晋作の電撃作戦で勝利し、幕府軍は惨敗続きであった。鹿児島にいた西郷は、7月9日に朝廷に出す長州再征反対の建白を起草し、藩主名で幕府へ出兵を断る文書を提出させた。一方、幕府は、7月30日に将軍徳川家茂が大坂城中で病死したので、喪を秘し、8月1日の小倉口での敗北を機に、敗戦処理と将軍継嗣問題をかたづけるべく、朝廷に願い出て、21日に休戦の御沙汰書を出してもらった。将軍の遺骸を海路江戸へ運んだ幕府は、12月25日の孝明天皇の崩御を機に解兵の御沙汰書を得て公布し、この戦役を終わらせた。この間、西郷は、7月12日、西郷に嫡男寅太郎が誕生し、9月に大目付・陸軍掛・家老座出席に任命された[4]。大目付役は返上した。


倒幕


大政奉還と王政復古の号令

慶応3年(1867年)3月上旬、村田新八・中岡慎太郎らを先発させ、大村藩平戸藩などを遊説させた。3月25日、西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭700名(城下1番小隊から6番小隊)を率いて上京した。5月に京都の薩摩藩邸と土佐藩邸で相次いで開催された四侯会議の下準備をした。6月15日、西郷は山県有朋を訪問し、初めて倒幕の決意を告げた。16日、西郷・小松帯刀・大久保利通・伊地知正治・山縣有朋・品川弥二郎らが会し、改めて薩長同盟の誓約をした。その後、江戸市内へ伊牟田尚平益満休之助相楽総三らを派遣し、破壊工作(江戸や近辺の放火強盗による人心攪乱)を行わせ幕府を挑発した。22日には西郷が坂本龍馬・後藤象二郎福岡孝悌らと会し、薩土盟約が成立した。

9月7日、久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が兵約1000名を率いて大坂に着いた。9月9日、後藤が来訪して坂本龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので、挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki