西郷隆盛
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持病

肥満高島鞆之助の言では西郷は大島潜居の頃から肥満になったとしているが、おそらく沖永良部島流罪当時は痩せこけて死にそうになっていたというから、沖永良部在島後半期に座敷牢にいて運動不足から肥満し始めたというのが真相と思われる。鹿児島は養豚の盛んな地であり、西郷は脂身のついた豚肉が大好物だったので、それが肥満に拍車をかけたと推測される。また、甘い物も好物であった。明治6年(1873年)の征韓論当時は肥満を治そうとしてドイツ人医師ホフマンの治療を受けていた。治療方法は2種用いられていた。一つは蓖麻子油(ひましゆ)を下剤として飲む方法であり、もう一つは運動をする方法であった。後者については『池上四郎家蔵雑記』(市来四郎『石室秘稿』所収、国立国会図書館蔵)中の池上四郎宛彭城中平書簡にこの治療期間中に西郷先生が肥満の治療のために狩猟に出かけて留守だと書いている。

フィラリア西郷隆盛は、流刑先の沖永良部島で、風土病のバンクロフト糸状虫という寄生虫に感染したとされ、この感染の後遺症である象皮症を患っていた。これによって陰嚢が人の頭大に腫れ上がっていた。そのため晩年はに乗ることができず、もっぱら駕篭を利用していた。西南戦争後の、首の無い西郷の死体を本人のものと特定させたのは、この巨大な陰嚢である[24]。ただし、比較的近年に至るまでバンクロフト糸状虫によるフィラリア感染症は九州南部を中心に日本各地に見られ、疫学的には必ずしも感染地を沖永良部島には特定できない。明治44年(1911年)の段階の陸軍入隊者の感染検査で、鹿児島県九州本島部分出身者の感染率は4%を超えていたし、北は青森県まで感染者が確認されている[25]


人物評

愛称「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。西郷に対し、最も敬意を示す表現法は南洲翁である。

肥大「先生の肥大は、始めからぢや無い。何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことぢや。戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかったぢや。長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑ぢやつた。」[26]

「うーとん」「うどめ」などの徒名の由来「うどめ」とは「巨目」という意味である。西郷は肖像画にもあるように、目が大きく、しかも黒目がちであった。その眼光と黒目がちの巨目でジロッと見られると、桐野のような剛の者でも舌が張り付いて物も言えなかったという。そのうえ、異様な威厳があって、参議でも両手を畳について話し、目を見ながら話をする者がなかったと、長庶子の西郷菊次郎が語り残している。その最も特徴的な巨目を薩摩弁で呼んだのが「うどめ」であり、「うどめどん」が訛ったのが「うーとん」であろう。

沖永良部島の「社倉」のその後沖永良部島は台風・日照りなど自然災害が多いところであったが絶海の孤島だったので、災害が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。そのことを知った西郷は「社倉趣意書」を書いて義兄弟になっていた間切横目(巡査のような役)の土持政照に与えた。社倉はもともと朱熹の建議で始められたもので、飢饉などに備えて村民が穀物や金などを備蓄し、相互共済するもので、江戸時代には山崎闇斎がこの制度の普及に努めて農村で広く行われていた。若い頃から朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。この西郷の「社倉趣意書」は土持が与人となった後の明治3年(1870年)に実行にうつされ、沖永良部社倉が作られた。この社倉は明治32年(1899年)に解散するまで続けられたが、明治中期には20,000円もの余剰金が出るほどになったという。この間、飢饉時の救恤(きゅうじゅつ)の外に、貧窮者の援助、病院の建設、学資の援助など、島内の多くの人々の役にたった。解散時には西郷の記念碑と土持の彰徳碑、及び「南洲文庫」の費用に一部を充てた外は和泊村と知名村で2分し、両村の基金となった。

猟好きと猟犬西郷は狩猟も漁(すなどり)も好きで、暇な時はこれらを楽しんでいる。自ら投げ網で魚をとるのは薩摩の下級武士の生活を支える手段の一つであるので、少年時代からやっていた。狩猟で山野を駆けめぐるのは肥満の治療にもなるので晩年まで最も好んだ趣味でもあった。西南戦争の最中でも行っていたほどであり、その傾倒ぶりが推察される。したがって猟犬を非常に大切にした。東京に住んでいた時分は自宅に犬を数十頭飼育し、家の中は荒れ放題だったという。

マキャベリストとしての評価敬天愛人の体現者としての評価とは別に冷酷なマキャベリストしての評価も存在する。幕府を挑発するために不逞浪士に江戸市中で乱暴狼藉を行わせたり、官軍のために貢献した赤報隊を偽官軍として処断するなど道義に反する行いも数々している。だが、己の保身や栄達のために策を講じたことはないとされ、このことが後の西郷の高い人格的評価の源泉となっている。その一方、維新後は政治的な策略や欺瞞を一切行わなくなった。だが皮肉なことにこのことが結果的に西郷を政治的な隠遁に追い込む遠因となった。


肖像

大久保ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真が無いと明治天皇に明言している。現在のところ西郷の写真は確認されていない。

死後に西郷の顔だと言われる肖像画が多数描かれているが、基となった1枚の絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔を下地に、がっしりしていた従弟・大山巌の体つきを合成して描かれた物である。キヨッソーネ自身は西郷との面識が一切無かったことから、実際の顔とは違う可能性もあるが、キヨッソーネが肖像画を描いた時点では生前の西郷と面識があった人物が多数おり、彼らから特に似ていないとの異論も出ていないの事から、基本的にはキヨッソーネの肖像画は西郷本人の顔に非常に近いと思われる。ただし、近年の研究で実際の西郷の耳は耳たぶが垂れたいわゆる福耳ではなく、平耳であったことが判明しており、実際の西郷にあって描かれた肖像画のいくつかは、明らかに平耳で描かれている。

寺田屋事件が起こった旅籠寺田屋にて西郷や明治天皇が坂本龍馬や桂小五郎らと写っていると称されている写真(フルベッキが佐賀藩致遠館の学生たちと撮影した写真)があるが、甚だ疑わしい。高値で売り込む人物が現在でもいるので、要注意である。フルベッキの写真は撮影されたのが慶応2、3年と特定されているが(明治初年の説もある)、比定された西郷ら明治維新の元勲がこの時期に一堂に会したことは史料的にも有り得ぬし、西郷本人に限っても、既に肥満体になっていたのに、頬骨が出、普通の身躯をしているなど疑問点だらけで、副島種臣とフルベッキ、さらに無名の佐賀士族の若者たちを写した写真を元勲たちの写真とこじつけたにすぎない。


銅像

東京都台東区上野上野公園高村光雲作(傍らの犬は後藤貞行作)の銅像が建設された。西郷には信頼性のある写真が一枚も残っておらず、光雲は肖像画や弟の西郷従道の風貌を参考にした。銅像の建設委員長をしていた樺山資紀を助けて奔走していた子息の樺山愛輔は、銅像の顔は極めてよくできているが、光雲は西郷の特徴ある唇(何とも言えない魅力と情愛に弱いところが同居している唇)を最後まで表現しきれないことに苦しんだと書いている[27]。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。この糸子の言をも樺山愛輔は「大体の風貌はあの通りとしても、個性的な魅力のある唇のもつニュアンスとでもいうか、そうした二つとない魅力的なものを現はすことは不可能であったわけだ、眼とか顔とか肩のもつ線とかは何とか表現することは出来たらうが、…」[27]と解釈している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen