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三国時代の曹操に仕えた司馬懿は曹操死後は魏の中心人物として権力を拡大し、諸葛亮の北伐を退けたなどの軍功により、魏の中での存在感は他を圧するものとなった。その伸張を疎まれて一時期閑職に遠ざけられることもあったが、司馬懿は息子の司馬師・司馬昭の助けを借りてクーデターを起こし、対抗勢力である曹爽一派を駆逐し、魏の権力を完全に掌握した。また、曹丕の制定した九品官人法を大幅に改定し、司馬氏に権力を集中させるなど政治的な面でも実権を握る。
251年に司馬懿は死に、その権力は司馬師が引き継ぐ。司馬師も255年に死に、司馬昭が権力を引き継ぐ。257年には司馬氏の権力掌握を打破すると称して諸葛誕の反乱が起きるが、司馬昭はこれを鎮圧して晋公の地位に勧められ、263年に蜀へ?艾・鍾会らを派遣してこれを併合したことで晋王となった。
265年に司馬昭が死に、その子の司馬炎が後を継ぐ。同年、司馬炎は魏の元帝より禅譲を受け王朝を立てた。王朝を立てたのは司馬炎であるが晋の実質的な創立者は司馬炎の祖父の司馬懿である。
魏自体、曹操・曹丕によって国家の基盤や制度が確立しており、三国では最も整備された政治体制を持っていた。このため、晋は安定した国情のまま禅譲を受けることが出来た。これに乗る形となった司馬炎は、統一後は政治を顧みず、後宮に一万人と言う美女を集めて女色にふけった。 こうして、王朝の初期に国家基盤が軽視されたことが、国情の紊乱ひいては政治の停滞へと繋がっていく。
司馬炎は290年に死去し、皇太子の司馬衷(恵帝)が後を継ぐ。しかしこの皇太子は暗愚で知られた人物で父・司馬昭からも太子を取り替えるべき。と、言われていた。その前評判どおり、即位した恵帝は政治を放り出し、実権は皇后の賈后(賈充の娘)が握った。
賈后の専権に反対する趙王司馬倫は300年に賈后を殺して首都・洛陽を制圧し、301年に恵帝を廃して自ら即位した。これが八王の乱の始まりであり、これ以後、皇族同士による血を血で洗う争いが続き国内は荒廃した。
このような争いに嫌気が差した知識人たちは権力から離れ、隠者になり清談や詩作にふけるようになった。その中でも有名な者が竹林の七賢である。
八王の乱による混乱を見た匈奴の大首長劉淵は304年に晋より自立して匈奴大単于を称する。この時をもって五胡十六国時代の始まりとされる。劉淵は更に308年には皇帝を名乗って国号を漢(後に趙を名乗り、後世からは前趙と呼ばれる)とした。また四川で成漢が自立した。
八王の乱は306年に終結して、その年に司馬越により懐帝が擁立される。劉淵は310年に死去し、後を継いだ劉聡は翌311年に洛陽を陥落させ、懐帝は捕らえられる。このことを西晋側から見て異民族の反乱であるとして永嘉の乱と呼ぶ。
懐帝は生かされたものの劉聡により、酒宴で酒を注ぐ役をさせられると言う屈辱を与えられ、313年に処刑される。懐帝が処刑されたことを聞いて長安にいた司馬?(愍帝)は即位して漢に抵抗するが、316年、長安が陥落して西晋は滅亡。愍帝は懐帝同様の扱いを受けたあと殺される。
皇族のうちただ一人逃げ延びた琅邪王・司馬睿(元帝)は江南に逃れ、愍帝が殺されたことを受けて即位して建康に都して東晋をたてた。