西園寺公望
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生涯


生い立ち

西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。両家は藤原公季を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統である。ただし遺伝的には彼は天皇家の男系子孫であり、東山天皇6世孫であるとされている。実父は右大臣徳大寺公純、実兄は3度にわたって侍従長となり、内大臣もつとめた徳大寺実則。すぐ下の弟の隆麿は住友家の入り婿となり、住友財閥を継いで第15代住友吉左衛門友純)を襲名し、長く財界に君臨した。そして末弟には、財団法人立命館理事として活躍した末弘威麿がいた。 幼少時には、住まいが御所に近く、年齢も近かったことから、祐宮(のちの明治天皇)の遊び相手として度々召された。


幕末・明治維新パリ留学時代、1871-80

西園寺には、岩倉具視三条実美のような幕末期における政治的功績はほとんど皆無であった。ただ鳥羽・伏見の戦いがはじまると、朝廷ではこれを徳川家島津家の私闘と見なす意見が出るなかにあって、積極的な関与・主戦論を主張し岩倉ら倒幕派公卿に注目された。

以後の戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、会津口征討大参謀として各地を転戦する。その後は越後府知事などを歴任したが、その当時、西園寺は10代の青年であり、この若さで任官できたのは家格の後光以外に理由を見出すことは困難である。また公卿の中で初めて洋装で宮中に参内し、未だ多く残る攘夷派公卿の怒りを買ったエピソードも自著(『陶庵随筆』)で披瀝している。

官を辞した西園寺はフランス留学を考えるようになり、東京や長崎でフランス語の勉強を始めた。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」と名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。やがて大村益次郎の推薦によって明治4年(1871年)、官費(のちに減額を申出ている)でフランスに留学した。京都に来ていた大村に礼を言うために旅館を訪れる直前、親友(万里小路通房)が駆け込んできて長談義となり、その間に大村は襲撃されるという事件が起こっている(明治2年)。

フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められてとまどうといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。

普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊、かわって樹立された革命政府パリ・コミューンとドイツ軍によるその鎮圧という、混乱の真ただ中にパリに到着した西園寺は、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していった。その間、後にフランス首相となるクレマンソーや、留学生仲間の中江兆民松田正久らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。西園寺はソルボンヌ大学で勉学にいそしむ一方で随分と遊蕩もし、フランス人女性にもたいそう人気であったと伝えられる。なお、第一次世界大戦後のパリ講和会議1919年)に日本の全権特使として出席した西園寺とパリ留学時代を同じ下宿ですごした親友クレマンソーとの友情は、講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。

パリ留学で自由思想を学んだ西園寺は自由民権運動に傾倒し、明治14年(1881年3月18日には、自由党結党に向けて創刊された『東洋自由新聞』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権運動に加担することは政府や宮中で物議を呼び、内大臣岩倉具視が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。この時の西園寺はあらゆる圧力に屈することはなかったが、明治天皇の内勅がでるとあっけないほど簡単に身をひいてしまった。この事件での彼の行動は彼の生涯にわたる世界観、政治観を端的にあらわしているともいえる。

西園寺はフランスで身に着けたリベラルな思想と名門公家の責務として皇室の藩屏たらねばならない意識というある意味で相反するものを共に有していた。そしてこの相反する二つを整理し融合したことから独特な世界観、政治観を持つ政治家へと成長した。このことは時に彼を優柔不断に見せたが、後述する天皇への諫言は極めて適切であったといえ、西園寺の政治家としての真骨頂を感じられる。西園寺は絶対天皇制の持つやがては皇室の存続をも危うくさせる危険性を早くから見抜いていた。西園寺のような感性をもった政治家を他に見出すことは難しい。

生涯権力や金銭に対する執着は乏しく、この淡白な性質は上級公卿に生まれた育ちの良さからくるものであったといえよう。この点で彼は終生の政敵山縣有朋とは対照的であった。

また、3人の内縁の妻を持ち、女子を儲けている一方、生涯正室は娶らなかった。はっきりした理由は西園寺自身述べていないが、名門西園寺家の当主であった彼は、娶るならば皇族公家大名家などの姫でなければならず、自由人であった西園寺がこうしたしがらみを嫌ったためとも言われている。

明治30年(1897年)、前年まで外務大臣を務めた陸奥宗光が、山縣を中心とする藩閥の打倒と議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが」と言って、周囲の見る目も痛わしいほどに落胆したという。


政治家としての西園寺内閣総理大臣、1906年

西園寺の政治家としてのキャリアは明治15年(1882年)、伊藤博文が憲法調査のためにヨーロッパを歴訪した際、それに随行したことにはじまる。初入閣は明治27年(1894年)、第二次伊藤内閣の文部大臣としてであった。ヨーロッパで伊藤の知遇を得た西園寺は、明治33年(1900年)の立憲政友会旗揚げに参画する。明治36年(1903年)には伊藤の後を受けて総裁となり、明治39年(1906年)と明治44年(1911年)の2回にわたって内閣総理大臣に任命される。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki