西南戦争
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豊後・美々津・延岡方面の戦い

豊後・日向方面は4月末から5月末にかけて、野村忍介が率いる奇兵隊とそれを後方から指揮・支援する池上とその部隊の働きで薩軍の支配下におかれたが、官軍の6月からの本格的反撃で徐々に劣勢に追い込まれていった。薩軍は都城の陥落後、宮崎の戦い、美々津の戦、延岡の戦いと相次いで敗れて北走し、8月末には延岡北方の長井村に窮することとなった。


三田井・豊後・日向方面

4月30日、西郷から豊後方面突出の命を受けた奇兵隊指揮長野村忍介は、椎葉山を越え、一部を富高新町(細島西方)の守備及び細島方面の警備に任じ、主力は延岡に進出した。これを後援するために5月4日に三田井方面に派遣された池上指揮部隊約1000名は、薩軍の本拠地人吉と延岡の交通路にあたる三田井の警備に部隊の一部を当て、主力は東進して延岡に進出した。延岡に進出した薩軍はここに出張本営を設け、弾薬製造、募兵、物資調達をし、奇兵隊1箇中隊を宮崎に、奇兵隊2中隊を美々津に、奇兵隊3中隊を細島に、奇兵隊3箇中隊を延岡に配置して、政府軍がまだ進出していない日向を支配下に置いた。

以後、池上は延岡から豊後方面に進出した野村忍介を後援・指揮するとともに三田井方面の指揮をも執った。5月14日、高城率いる正義隊など6箇中隊は延岡街道鏡山の熊本鎮台警備隊を襲撃し、追撃して馬見原、川口に進出した。熊本鎮台部隊が5月22日に馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった第一旅団は5月25日、折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。しかし、三田井を占領された薩軍は6月1日、日影川の線を占領し、官軍進撃を阻止した。こうして苦戦・後退しながらも、薩軍は8月まで延岡方面への官軍の進出を阻止しつづけた。


豊後方面

奇兵隊指揮長野村忍介は、5月10日以後、奇兵隊8個中隊を率いて、本格的に豊後攻略を開始した。12日に先発の4箇中隊が延岡を出発して重岡、13日に竹田に入って占領し、ここで募兵して報国隊数100名を加えた。14日には後続の4箇中隊も竹田に到着し、大分突撃隊を選抜して部隊に加えた。このように豊後攻略は順調に進展した。しかし、政府軍は15日に熊本鎮台と第一旅団から部隊を選抜して竹田に投入して反撃に出た。両軍の激戦は10数日におよび、29日に竹田は陥落して政府軍の手に落ちた。奇兵隊は6月1日に臼杵を占領したが、6月7日の野津道貫大佐の指揮する4箇大隊の攻撃と軍艦3隻による艦砲射撃により6月10日に敗退した。こうして北方から圧力を受けた奇兵隊は6月22日、本拠地を熊田に移した。


野尻方面

破竹隊は小林を守備していたが、7月11日、官軍第二旅団によって占領された。官軍はさらに軍を進めて薩軍と21日から野尻で交戦したが、薩軍は疲労のため勢いをなくし、別働第二旅団が翌22日に野尻を占領した。


宮崎方面

7月24日、第三旅団は河野主一郎らの破竹隊を攻撃し、庄内を陥落させた。同日、別働第一旅団は末吉を攻撃し、別働第二旅団は財部を攻撃した。そしてついに第三旅団・別働第三旅団・第四旅団が都城を陥落させた。7月25日、薩軍の中島や貴島らの振武隊、行進隊、熊本隊が山之口で防戦したが、第三旅団に敗北した。 この時、三股では別府九郎の奇兵隊などが防戦していた。

薩軍は都城敗退後、官軍の北・西・南からの攻撃に備え、宮崎を中心に諸隊を以下のように配置した。

宮崎方面 ─ 桐野利秋・村田新八・別府晋介・島津啓二郎

常山隊(指揮長平野正介)・狙撃隊(中隊長小倉壮九郎)・宮崎徴募隊


延岡・三田井・豊後方面 ─ 池上四郎

奇兵隊(指揮長野村忍介)・中津隊(中隊長増田宋太郎)・正義隊(指揮長高城七之丞)


学の木・清武方面

雷撃隊(指揮長辺見十郎太)・振武隊(指揮長中島健彦)・破竹隊(指揮長河野主一郎)・行進隊(指揮長相良長良)・鵬翼隊(指揮長新納精一)・熊本隊(大隊長池辺吉十郎)・協同隊(中隊長有馬源内)・加治木隊


天包山・尾泊方面

干城隊(指揮長阿多壮五郎)・佐土原隊(司令鮫島元)・志布志隊(中隊長堀木井喜蔵)


飫肥方面

飫肥隊(司令川崎新五郎)


佐土原方面

佐土原隊


高鍋方面

高鍋隊(司令坂田諸潔)

7月27日、別働第三旅団が飫肥を攻めて陥落させた。この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。高岡を攻撃するため今別府に集まった第二旅団は7月28日、別働第二旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けた。辺見・中島・河野主一郎・相良長良らの防戦により官軍は苦しい戦いになったが、やっとの思いでこれを抜いた。翌29日、官軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。

都城・飫肥・串間をおさえた第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は7月30日、宮崎市の大淀河畔に迫った。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領した。7月31日、第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込んだ。薩軍は増水のため官軍による渡河はないと油断していたので、抵抗できず、 宮崎から撤退したため、官軍は宮崎市を占領した。次いで第二旅団により佐土原も占領した。

そこで宮崎市・佐土原と敗北した薩軍は、桐野をはじめ辺見、中島・貴島・河野主一郎らの諸隊と、池辺の熊本隊、有馬が率いる協同隊やほかに高鍋隊も高鍋河畔に軍を構えて官軍の進撃に備えた。これに対し官軍は、広瀬の海辺から第四旅団・第三旅団・第二旅団・別働第二旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃のときを待った。この時、別働第三旅団は多くの薩軍兵捕虜の対応をするために解団した。

8月1日、海路より新撰旅団が宮崎に到着した。この後、一の瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かった。翌2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。


米良方面

7月13日、人吉が陥落した後、干城隊指揮長阿多荘五郎は米良口の指揮を執ることとなり、諸隊を編成して米良方面の守りを固めていたが、7月23日、高山天包に進撃するも敗れ、越の尾に退却した。7月29日、越の尾を攻めてきた官軍にまたも敗退した。8月2日、銀鏡にいた部隊は美々津に退却せよとの命令を受け、美々津に向かった。


美々津方面

8月2日に高鍋を突破され敗退した薩軍は、美々津に集結し戦闘態勢を整えた。本営は延岡に置き、山蔭から美々津海岸まで兵を配置した。この時に桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上は延岡に、順次北方に陣を構えて諸軍を指揮した。

別働第二旅団は8月4日、鬼神野本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備していた宮崎新募隊の背後を攻撃した。薩軍は渡川、鬼神野から退いて、8月6日、山蔭の守備を固めた。西郷はこの日、各隊長宛に教書を出し奮起を促した。

8月7日、奇兵隊三・六・十四番隊は別働第二旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退。官軍はそのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。薩軍はこれを抑えきれず、美々津から退いて門川に向かった。同日、池上は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移した。


延岡方面

官軍は8月12日、延岡攻撃のための攻撃機動を開始した。別働第二旅団が8月14日に延岡に突入し、薩軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第三・四旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は自ら陣頭に立ち、官軍と雌雄を決しようとした。この時の薩軍(約3,000〜3,500名)は和田峠を中心に左翼から以下のように配置していた(『大西郷突囲戦史』に依る)。

友内山・無鹿山方面(2箇中隊)

伊東直二(奇兵隊)


神楽田・和田峠(7箇中隊)

相良長良(行進隊)・河野主一郎(破竹隊)・平野正介(常山隊)・阿多壮五郎(干城隊)・新納精一(鵬翼隊)・高城七之丞(正義隊)


和田峠北・小梓峠

山崎定平(熊本隊)


小梓峠・長尾山

野村忍介(奇兵隊)・増田宋太郎(中津隊)・重久雄七(奇兵隊)

また長尾山から西部の可愛岳にかけては辺見十郎太(雷撃隊)・中島健彦(振武隊)・野満長太郎(協同隊)らの5箇中隊を配備し、北部の熊田には小倉処平・佐藤三二が指揮する5箇中隊を配備して熊本鎮台兵に備え、予備隊として使用するつもりであった。

対する官軍(約50,000名)は山県参軍指揮のもと、延岡から北嚮きに

右翼

方財島方面 ─ 新撰旅団


中央

無鹿方面 ─ 第四旅団

和田峠・堂坂方面 ─ 別働第二旅団


左翼

長尾山方面 ─ 第三旅団

と攻撃主力を部署し、西部の可愛岳(えのたけ)山麓には

可愛岳南麓 ─ 第三旅団

可愛岳西麓 ─ 第一旅団

熊田の北部には

熊本鎮台・別働第一旅団2箇中隊

と配備し、薩軍を包囲殲滅しようとした。


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