詳細はテトラルキアを参照
3世紀の危機の間、275年のアウレリアヌスの死から10年後のディオクレティアヌスの即位までに少なくとも8人の皇帝が暗殺されたが、外的な国境争いはほぼ平穏であった。
ディオクレティアヌスのもと、286年テトラルキアを通じてローマ帝国 の政治的分割が始まり、彼はマクシミアヌスを正帝として西部を与え、コンスタンティウス・クロルスを副帝に任じた(ディオクレティアヌス自身は東の正帝になった。副帝はガレリウス)。このシステムは効果的に、帝国を4つに分割し、3世紀に指摘された内乱を防ぎ、ローマに対し分離した首都を作った。西では、首都はマクシミアヌスのメディオラヌムとコンスタンティヌスのトーリアであった。305年5月1日、2人の正帝が退位し、2人の副帝が昇格した。
詳細はコンスタンティヌス1世を参照
西帝コンスタンティウス・クロルスが306年に急逝し、その息子コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がブリタニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、テトラルキア制度はたちまち頓挫した。その後、数人の帝位請求者が西ローマの支配権を要求して、危機が訪れた。308年、東ローマ帝国の正帝ガレリウスは、カルヌントゥムで会議を招聘し、テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世と、リキニウスという名の新参者とで、権力を分けることにした。だがコンスタンティヌス1世は、帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、リキニウスとコンスタンティヌスは314年までに、ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、天下統一をめぐって争っていた。コンスタンティヌスが324年9月18日にクリュソポリス(カルケドンの対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。
テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を二人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国はたびたび東西に分割されるようになった。
ローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されたが、コンスタンティヌス1世が337年に死去すると、3人の息子たちの間で内乱が勃発し、帝国を3分割することになった。西ローマは340年に再統一され、帝国全土の再統一は、353年にコンスタンティウス2世によって果たされた。
コンスタンティウス2世は自らの権力のほとんどを東ローマに集中させたので、最初の東ローマ皇帝と見なされることもある。その支配のもとで、コンスタンティヌス1世によって新たな首都とされたばかりのコンスタンティノポリス(もとのビュザンティオン)は、ローマ帝国の首都として完全に整備された。
361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、コンスタンティウス・クロルスの孫で、コンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが即位した。ユリアヌスが、先帝のサーサーン朝ペルシアとの対戦を継続中に363年に戦死すると、ヨウィアヌスがその後を襲ったが、その治世は364年までしか続かなかった。
最後の分割テオドシウス1世没後のローマ帝国の分割。両者の国境は黒線にて表示(白線は現代の国境)。
?? 西ローマ帝国
?? 東ローマ帝国
皇帝ヨウィアヌスの死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、直ちに帝国を再び分割し、東側の領地を弟ウァレンスに譲った。東西のどちらの側もフン族やゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、安定した時期がなかなか実現しなかった。西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、異教徒が引き起こす政治的な反撥であった。379年に、ウァレンティニアヌス1世の息子にして後継皇帝のグラティアヌスは、最高神祇官 (pontifex maximus) の衣裳を羽織ることを拒否し、382年には、異教の神官の権利を剥奪して、異教の祭壇をローマの元老院から撤去した。そして最高神祇官(Pontifex Maximus)の称号をローマ教皇に譲ったのである。
388年、実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、皇帝を僭称すると、グラティアヌスの息子である西帝ウァレンティニアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝テオドシウス1世に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。391年にテオドシウス1世が、異教の禁止を西側に発令し、キリスト教化を施行すると、392年にフランク族で異教徒の指揮官( ⇒en:magister militum)アルボガステスがウァレンティニアヌス2世を暗殺した。エウゲニウスという名の元老院議員が西帝として即位するも、394年にテオドシウス1世に倒された。テオドシウス1世は、395年に崩御するまでの1年間、東西の両方を統治した。彼以降、ローマ帝国の東西を単独の統治者が支配する機会は、ユスティニアヌス1世による短期間の復興を除いて、絶えることになる。