西ローマ帝国
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コンスタンティヌス

詳細はコンスタンティヌス1世を参照

西帝コンスタンティウス・クロルス306年に急逝し、その息子コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がブリタニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、テトラルキア制度はたちまち頓挫した。その後、数人の帝位請求者が西ローマの支配権を要求して、危機が訪れた。308年、東ローマ帝国の正帝ガレリウスは、カルヌントゥムで会議を招聘し、テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世と、リキニウスという名の新参者とで、権力を分けることにした。だがコンスタンティヌス1世は、帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、リキニウスとコンスタンティヌスは314年までに、ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、天下統一をめぐって争っていた。コンスタンティヌスが324年9月18日にクリュソポリス(カルケドンの対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。

テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を二人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国はたびたび東西に分割されるようになった。


再分割

ローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されたが、コンスタンティヌス1世337年に死去すると、3人の息子たちの間で内乱が勃発し、帝国を3分割することになった。西ローマは340年に再統一され、帝国全土の再統一は、353年コンスタンティウス2世によって果たされた。

コンスタンティウス2世は自らの権力のほとんどを東ローマに集中させたので、最初の東ローマ皇帝と見なされることもある。その支配のもとで、コンスタンティヌス1世によって新たな首都とされたばかりのコンスタンティノポリス(もとのビュザンティオン)は、ローマ帝国の首都として完全に整備された。

361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、コンスタンティウス・クロルスの孫で、コンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが即位した。ユリアヌスが、先帝のサーサーン朝ペルシアとの対戦を継続中に363年に戦死すると、ヨウィアヌスがその後を襲ったが、その治世は364年までしか続かなかった。


最後の分割テオドシウス1世没後のローマ帝国の分割。両者の国境は黒線にて表示(白線は現代の国境)。

?? 西ローマ帝国

?? 東ローマ帝国

皇帝ヨウィアヌスの死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、直ちに帝国を再び分割し、東側の領地を弟ウァレンスに譲った。東西のどちらの側もフン族ゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、安定した時期がなかなか実現しなかった。西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、異教徒が引き起こす政治的な反撥であった。379年に、ウァレンティニアヌス1世の息子にして後継皇帝のグラティアヌスは、最高神祇官 (pontifex maximus) の衣裳を羽織ることを拒否し、382年には、異教の神官の権利を剥奪して、異教の祭壇をローマの元老院から撤去した。そして最高神祇官(Pontifex Maximus)の称号をローマ教皇に譲ったのである。

388年、実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、皇帝を僭称すると、グラティアヌスの息子である西帝ウァレンティニアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝テオドシウス1世に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。391年にテオドシウス1世が、異教の禁止を西側に発令し、キリスト教化を施行すると、392年フランク族で異教徒の指揮官( ⇒en:magister militum)アルボガステスがウァレンティニアヌス2世を暗殺した。エウゲニウスという名の元老院議員が西帝として即位するも、394年にテオドシウス1世に倒された。テオドシウス1世は、395年に崩御するまでの1年間、東西の両方を統治した。彼以降、ローマ帝国の東西を単独の統治者が支配する機会は、ユスティニアヌス1世による短期間の復興を除いて、絶えることになる。一般にはテオドシウス1世の死をもってローマ帝国の東西分裂と呼んでいるけれども、これは何世紀にもわたって内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の最後の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。

西ローマは、(摂政スティリコに操られた)皇帝ホノリウスのもとで一時的な安定期を迎えるも、408年にスティリコが死ぬと、その期間も終わった。それから2つに分かれた帝国は、文字通り別々の道を歩んだ。東ローマがゆっくりと建て直しに入って地固めを進めていったとき、西ローマは完全にばらばらになろうとしていた。


経済とのかかわりローマ帝国への蛮族の侵入経路

上述の通り、既にイタリア半島では五賢帝時代から産業の空洞化が始まっており、ローマ帝国末期を通じて、西ローマが経済的な下降線を辿っていった。中央の権力が弱まると、国家として国境や属州を制しきれなくなり、致命的なことに、地中海をも掌握できなくなった。歴代のローマ皇帝は蛮族を地中海へと立ち入らせなかったのだが、ヴァンダル族はとうとう北アフリカを征服してしまう。

これは西ローマ帝国の農業において、深刻なダメージとなった。ローマ帝国は帝政期以前よりも、イタリア半島ではオリーブや葡萄や食肉などの貴族の嗜好品を中心とする農業を営んでおり、主食たる小麦についてはシチリアや北アフリカなどの属州に依存していた。ところが地中海に蛮族の侵入を許した事によって、この農業体制が崩壊してしまうのである。この経済的な衰退が、とどのつまりは西ローマ崩壊の伏線となったのである。古代においては国民総生産と国家の税収のほとんどは農業に由来している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki