1898年の戊戌の新政の際には康有為、梁啓超ら変法派を当初支持した。軍の洋式化を推し進めていた袁にとっても、変法派の主張は好ましく思えるものであった。彼自身、梁の学習サークルである強学会に所属していたこともある。しかし変法派が西太后ら守旧派を一掃するクーデターを策するとあっけなく裏切り、西太后の側近である栄禄に情報をリークした。これによって西太后の信頼を得ることとなり、翌年には山東巡撫(省の長官)に任ぜられた。
義和団の乱では袁は自らの治下での反乱をいちはやく鎮圧し、彼の軍隊の強さを証明した。西太后を中心とする北京政府は各省の指導者に義和団と結んで欧米列国軍を攻撃する命令を下すが、袁は両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞らと協調し、諸外国と東南互保の盟約を結び、北京政府の命令には従わず領土と軍隊を保全した。結局義和団の乱は列国軍によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清朝の軍隊はほとんど壊滅し、袁の力はさらに強まることとなった。
1901年に李鴻章が没すると、袁は彼を引き継いで北洋大臣兼直隷総督となった。ここに北洋軍が誕生したのである。北洋大臣としての立場から、従来に加えて袁の軍はさらに強化された。その後も栄禄ら有力者が没していく中でさらに権勢を強め、また西太后からの信頼も極めて厚くなった。
ストロング・マン袁世凱の政策辛亥革命直後か1908年ころの袁世凱。“Strong Man”の異名を持つ袁だが、かなり小柄であった
この時期から袁は政治家としても活躍し、いわゆる光緒新政の中心的人物となった。彼の採った政策とは、国債などによって諸外国から金を借り、その資金によって陸軍の洋式化、教育機関の拡充、鉄道、銀行などのインフラ整備を行っていくというものであった。この方式は辛亥革命後に彼が大総統になった後もあまり変化がない。また、資金を借りることで列強に侵略されるリスクについては、各国に平均して頼ることで回避が可能であると考えていた。日露戦争後に日本が東三省(満州)において独占的な権益の確保を企てるが、彼はアメリカを同地に介入させることで、日本の侵食を阻止しようとしている。
1907年には軍機大臣・外務部尚書となった。この時期、辰丸事件を機に中国南部沿岸で日貨排斥運動を煽るなど、日本の影響力を削ぐ活動も行った。
ところが1908年に西太后が病没し、宣統帝が即位し、宣統帝の父醇親王載?が摂政王として政権を担当すると、袁の政界での状況は一変する。戊戌変法で兄光緒帝を裏切った袁を憎んでいた醇親王は、1909年初め、袁を失脚させた。さらに袁の殺害の計画もあったが、内部情報を得た袁はかろうじて北京を逃れた。かくしてすべての職を失った袁は河南省彰徳近くに居を構え、失意の日々を過ごすこととなった。しかし、一方で彼の部下は多く政権に残っていたので、内部情報はふんだんに入手していたようである。
1911年10月、辛亥革命が勃発、華中・華南では革命派優位で情勢が推移した。清朝内の満州貴族らも既に袁のほかにこれを鎮圧できる人物はいないと判断し、清朝の第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じた。清朝不利を確信した袁は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方では革命派と極秘に連絡を交わした。そして自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、清朝の要路者に政権の交代をうながした。こうして1912年3月、最後の皇帝宣統帝が退位して清朝は滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任したのである。
中華民国大総統就任1912年3月10日、宣統帝の退位とともに袁世凱は中華民国臨時大総統に就任した
袁の政治に対する考えは一貫しており、中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように乱れた中国はまとまり得るというものであった。こうした発想は当時の対中国観の主流であり、孫文などもそう考えていた。しかしこれにたいして当時国民党の実質的指導者である宋教仁は、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を行うことが必要であると主張した。当時としては新鮮なこの考えは多くの国民の心を捉え、国民党は1912年12月の選挙で圧勝した。袁は大きな影響力を持ちつつある宋を警戒し、懐柔策をしばらくとり続けたが、ついに1913年3月、宋教仁を暗殺した。その後も大総統の権限を強化したり、任期を長くするなど自らの強権に努めた。
この後、多くの国から借款を行い、近代化資金を確保し、インフラ整備を行った。この借款にたいして南方各省から反発の声があがり反乱となったが、袁は得意の軍事力をもってこれを撃退した。反乱軍を指揮していた李烈鈞・孫文・黄興らは日本に亡命した(1913年9月、第二革命)。同年10月には正式に大総統に就任。さらに国民党の解散命令を出したうえで、国会内の国民党議員を全員解職した。
1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると、袁の中華民国政府は中立をいちはやく宣言した。しかし、隣国の日本は日英同盟を理由に膠州湾岸のドイツ領に出兵し、占拠した。この間、袁は日本に領土の返還を求めるが、受け入れられなかった。さらに日本から「21か条要求」を突きつけられる。袁はこの情報を諸外国にリークするなどして不成立させようとするが、1915年5月、ついにこれを認めた(但し、「21か条要求」そのものが、袁世凱が共和制の脆弱性を国民に見せ付けるために日本側と打った「芝居」だとする説もある)。
こうした袁の弱腰(と映った)な姿勢に、自治の姿勢を強めつつあった地方勢力が再び不穏な動きを見せていた。このことが必ずしも理由ではないが、地方から中央への税の流れがとどこおりつつあり、また北京など大都市では袁の専制を批判する動きが学生を中心に広がりつつあった。学生の多くは、主に日本から自由民権思想・社会主義などの新しい思想を持ち帰り、袁の施政をすでに時代遅れのものと考えていた。
洪憲帝
中華帝国皇帝
中華帝国皇帝時代の袁世凱
在位1915年12月12日 - 1916年3月22日