清朝末期の軍人として陸軍の近代化を進める役割を担いつつ台頭し、彼自身が作り上げた軍事力を背景に政治的にも大きな権力を振るい、欧米諸国では彼のことを「ストロング・マン」と呼んだ。その後一時失脚するが、辛亥革命の混乱の中で清政府と孫文らの革命派との間で巧みに遊泳し、中華民国大総統となり、革命派を弾圧するとともに、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たった。さらに一時皇帝に即位したが、内外の反発を買って退位、失意のうちに没した。
家族構成は、妻妾8人と子女15人。長男の袁克定は、父・袁世凱を補佐し、辛亥革命や、袁の皇帝即位などにおいて数々の策謀を巡らせたとされる。また、大叔父の袁甲三は道光帝時代の進士である。
袁の生家は、官僚や軍人を多く輩出した、地元でも指折りの名族であった。そういったなかで生まれた袁は、若いころから立身出世の強い願望を抱いていたと多くの伝記は語っている。
まず官僚を志して科挙に2度挑戦したが、どちらも一度目の試験に及第せず断念した。そこで軍人となることを志し、1881年には李鴻章幕下の軍に身を投じ、朝鮮に渡った。その後任地で発生した壬午の変(壬午軍乱)・甲申の変(甲申政変)では閔妃の要請のもと巧みな駆け引きで鎮圧に貢献し、情勢を清朝有利に導いた。そして事実上の朝鮮公使として李鴻章の監督の下、朝鮮の内政にも干渉できるほどの大きな権限を持った。
袁は朝鮮に政治的・経済的ともに清朝の勢力を扶植して対抗する日本勢力を排除しようと考え、特に経済的には一定の成果を挙げている。ところが1894年、貧しさと圧政にあえぐ朝鮮の民衆が甲午農民戦争(東学党の乱)を起こした。失地回復を図る日本はここぞとばかり軍隊を派遣、袁も負けじと本国に出兵を要請し、ここに日清戦争が勃発した。
しかし日清戦争は清朝の大敗に終わり、敗北の中で袁は本当の意味で近代化した軍隊の必要性を痛感した。当時の清朝の軍隊は、軍備の資金は与えられても上官による横領が頻発し満足な装備を持たなかったり、装備は充実していても兵隊の規律がなっていなかった。袁はその後まもない1895年10月には陸軍の洋式化の職務に就き、近代兵器を伴った兵の訓練、厳しい規律などを実施し、大きな成果を挙げた。当時の欧米人や日本人も、袁の軍隊を視察して高い評価を下している。当時の袁の軍隊のことを、新建陸軍と呼ぶ。
この軍事力こそが袁の力の基礎となり、その後の北洋軍の屋台骨となった。人材面でも、段祺瑞・馮国璋・王士珍(その後北洋の三羽烏と呼ばれる)らはこの時期から袁の幕下に入り、彼を支えることとなる。
1898年の戊戌の新政の際には康有為、梁啓超ら変法派を当初支持した。軍の洋式化を推し進めていた袁にとっても、変法派の主張は好ましく思えるものであった。彼自身、梁の学習サークルである強学会に所属していたこともある。しかし変法派が西太后ら守旧派を一掃するクーデターを策するとあっけなく裏切り、西太后の側近である栄禄に情報をリークした。これによって西太后の信頼を得ることとなり、翌年には山東巡撫(省の長官)に任ぜられた。
義和団の乱では袁は自らの治下での反乱をいちはやく鎮圧し、彼の軍隊の強さを証明した。西太后を中心とする北京政府は各省の指導者に義和団と結んで欧米列国軍を攻撃する命令を下すが、袁は両広総督李鴻章・両江総督劉坤一・湖広総督張之洞らと協調し、諸外国と東南互保の盟約を結び、北京政府の命令には従わず領土と軍隊を保全した。結局義和団の乱は列国軍によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清朝の軍隊はほとんど壊滅し、袁の力はさらに強まることとなった。
1901年に李鴻章が没すると、袁は彼を引き継いで北洋大臣兼直隷総督となった。ここに北洋軍が誕生したのである。北洋大臣としての立場から、従来に加えて袁の軍はさらに強化された。その後も栄禄ら有力者が没していく中でさらに権勢を強め、また西太后からの信頼も極めて厚くなった。
ストロング・マン袁世凱の政策辛亥革命直後か1908年ころの袁世凱。“Strong Man”の異名を持つ袁だが、かなり小柄であった
この時期から袁は政治家としても活躍し、いわゆる光緒新政の中心的人物となった。彼の採った政策とは、国債などによって諸外国から金を借り、その資金によって陸軍の洋式化、教育機関の拡充、鉄道、銀行などのインフラ整備を行っていくというものであった。この方式は辛亥革命後に彼が大総統になった後もあまり変化がない。また、資金を借りることで列強に侵略されるリスクについては、各国に平均して頼ることで回避が可能であると考えていた。日露戦争後に日本が東三省(満州)において独占的な権益の確保を企てるが、彼はアメリカを同地に介入させることで、日本の侵食を阻止しようとしている。
1907年には軍機大臣・外務部尚書となった。この時期、辰丸事件を機に中国南部沿岸で日貨排斥運動を煽るなど、日本の影響力を削ぐ活動も行った。
ところが1908年に西太后が病没し、宣統帝が即位し、宣統帝の父醇親王載?が摂政王として政権を担当すると、袁の政界での状況は一変する。戊戌変法で兄光緒帝を裏切った袁を憎んでいた醇親王は、1909年初め、袁を失脚させた。さらに袁の殺害の計画もあったが、内部情報を得た袁はかろうじて北京を逃れた。かくしてすべての職を失った袁は河南省彰徳近くに居を構え、失意の日々を過ごすこととなった。しかし、一方で彼の部下は多く政権に残っていたので、内部情報はふんだんに入手していたようである。
1911年10月、辛亥革命が勃発、華中・華南では革命派優位で情勢が推移した。清朝内の満州貴族らも既に袁のほかにこれを鎮圧できる人物はいないと判断し、清朝の第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命するとともに、反乱軍の鎮圧を命じた。清朝不利を確信した袁は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方では革命派と極秘に連絡を交わした。そして自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、清朝の要路者に政権の交代をうながした。こうして1912年3月、最後の皇帝宣統帝が退位して清朝は滅亡、袁世凱は新生中華民国の臨時大総統に就任したのである。